叱責と応援、これが大阪 がんこフードサービス会長・小嶋淳司さん(私のかんさい)
日本の食 「物語」を世界へ

2016/12/8 6:00
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 ■大阪で創業した外食企業、がんこフードサービス(大阪市)会長の小嶋淳司さん(81)は「食」を通じた関西の魅力を発信し続けている。

白浜温泉に近い和歌山県上富田町で6人兄弟の末っ子として生まれた。町中を流れる川は清く、アユやウナギなどを捕ってヘトヘトになるまで遊んだ。戦時中の貧しい時代。上等な物はなかったがひもじい思いはせず、のんびりと自由に幼少期を過ごした。実家はJR紀勢本線朝来駅前のよろず屋で、衣類や化粧品、文房具など様々な生活用品を売っていた。9歳の時に父が亡くなり、母が女手一つで店を切り盛りしていた。

 こじま・あつし 1935年和歌山県上富田町生まれ。62年同志社大経卒。63年「がんこ寿司」を創業し2005年会長。06年関西経済同友会代表幹事、08年大阪商工会議所副会頭。01年には日本フードサービス協会会長も務めた。

こじま・あつし 1935年和歌山県上富田町生まれ。62年同志社大経卒。63年「がんこ寿司」を創業し2005年会長。06年関西経済同友会代表幹事、08年大阪商工会議所副会頭。01年には日本フードサービス協会会長も務めた。

 ■高校2年の時に母親が過労で倒れ、店を継ぐ。商売の道に進む一大転機となる。

県立田辺高校時代はやんちゃで、バンカラを気取って羽目も外した。マドンナ的な先生を誘って校舎ですき焼きパーティーを開き、教頭に怒られた。夜中に学校の前の海で裸で泳いだこともある。月光できらきらと輝く海面の景色は今も忘れない。

母が倒れたとき、兄や姉は既に家を出ていた。急に飛び込んだ商売の世界だが、面白いのは詰め襟姿の青二才でも自ら仕入れルートを開拓して商品を工夫すると、客が行列して買いに来てくれることだった。

新たな仕入れには運転資金がいる。地元の相互銀行に駆け込み、支店長に借り入れを申し込んだ。高校生など門前払いでもおかしくなかったが、支店長は無担保で融資してくれた。祖父、母と続けてきた商売の実績と、新しいことに挑む姿勢を評価してくれた。「信用」という財産は、もうけの何十倍にもなって返ってくるのだと実感した。

高校卒業後4年商売を続けたが、兄が実家に戻り店を継いだので同志社大学に進学。卒業後に就職することも考えたが、同年代の人たちに追いつきたいとの焦りもあり、卒業後1年で起業すると決めた。

選んだのは元手資金が少なくて済み、すぐに始められる飲食業。学業の傍ら大阪の繁盛店50店以上に通い、客数や客単価などから各店の損益計算書を独自に推計した結果、一番もうかっていたすし店に決めた。

がんこ寿司の1号店は1963年、大阪・十三に開業した。庶民の街で、すし店の最激戦区。わずか4坪半の店舗で、当初は閑古鳥が鳴いたものの、あるとき急に売上高がぐっと伸びた。「うまくて安い」と口コミで広がったからだ。大阪には食べ物に詳しいグルメな人が多い。ひとつ間違えばその場で容赦なく批判されるが、最後は「次来た時にはちゃんとしといてや」と応援してくれる。これが大阪だ。

開店した大阪の難波本店前で(1981年)

開店した大阪の難波本店前で(1981年)

 ■関西にはインバウンド(訪日外国人)客があふれ、2025年の国際博覧会(万博)誘致の動きも出ている。

日本文化の大きな部分を占めるのが「食」だ。外食産業は世界の人の心をつかむ大きな役割を果たせる。課題は食文化の原点を認識できるかだ。単に料理を出すのではなく、四季の変化や地域の特性、調理法や料理に込めた思いなど「物語」をどれだけ客に語れるかだ。土地に根ざした風土は日常に当たり前にあるがゆえに大事さに気付かない。自分で気付けないなら周囲に謙虚に聞き、視点を変える訓練が必要だ。

関西に外国人が多く訪れるのは日本の文化や伝統、信仰をしっかりと守ってきたから。関西には大阪も京都も奈良も神戸も姫路もある。熊野古道も外国人が大勢歩いている。これだけ日本文化の本質を体現した観光資源が凝縮した地域はほかにない。これに加えて関西が強みとするAI(人工知能)などの最先端の技術や医療・創薬の分野で特徴を出せれば、魅力はさらに高まるだろう。

(聞き手は大阪経済部 関口圭)

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