宮殿遺跡 45年目の改称 飛鳥宮跡(時の回廊)
奈良県明日香村

2016/12/2 6:00
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澄んだ青空のもと、晩秋の水田に黄ばんだ稲株が広がる。かなたに望むのは色づいた甘樫丘(あまかしのおか)や天香久山(あまのかぐやま)。井戸や柱列などの復元遺構だけが、ここにかつて都があったことをしのばせる。

■従来は「板蓋宮」

中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺した「乙巳(いっし)の変」の舞台として知られる奈良県明日香村の国史跡「伝(でん)飛鳥板蓋宮跡(いたぶきのみやあと)」が10月、「飛鳥宮跡(きゅうせき)」に遺跡名を改めた。周辺で行われた170回を超す発掘で実相解明が進み、名称変更に至った。

井戸跡の復元遺構。現在では後飛鳥岡本宮以降のものとされている

井戸跡の復元遺構。現在では後飛鳥岡本宮以降のものとされている

日本書紀によると、推古天皇が592年に豊浦宮(とゆらのみや)で即位してから694年の藤原京遷都まで約100年の間、歴代天皇は主要な宮殿を飛鳥周辺に造営した。

舒明天皇は飛鳥岡本宮(おかもとのみや)、皇極天皇は飛鳥板蓋宮、斉明・天智天皇は後(のちの)飛鳥岡本宮、天武・持統天皇は飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)を営んだと伝わる。これらの宮殿は代替わりの度に別の場所に建てられたとかつては考えられ、それぞれ所在地はどこか、江戸時代から諸説あった。

奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)の発掘で柱列などの遺構が初めて見つかったのは1959年。奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が「飛鳥京跡」の名称で調査を続けた。橿考研の菅谷文則所長は「宮殿跡であるのは確かだが、どの宮殿か当初は決め手に欠けた。板蓋宮説のほか草壁皇子の宮殿、嶋宮(しまのみや)説もあった」と話す。

当時は高度成長期。明日香村にも開発の波が押し寄せ、遺跡と緑豊かな田園を守ろうとの機運が全国的に高まった。宮殿遺跡も保存に向け史跡指定が急がれたが「それには宮殿名を特定する必要があり、確証はないまま『板蓋宮跡』の名で72年に史跡にした、と当時の関係者から聞いた。飛鳥の宮殿では最も著名だからでは」と菅谷所長は話す。

飛鳥宮の復元模型(奈良県橿原市の橿原考古学研究所付属博物館)

飛鳥宮の復元模型(奈良県橿原市の橿原考古学研究所付属博物館)

■同位置に4宮殿

菅谷氏は73年から発掘を担当。過去の調査成果を整理し、藤原宮跡などの発掘も勘案して「板蓋宮ではなく浄御原宮の跡」と唱えた。果たして発掘が進むと最初に見つかった遺構の下層に、さらに別の宮殿の遺構があることが判明。現在では岡本宮、板蓋宮、後岡本宮、浄御原宮の4つの宮殿がほぼ同じ場所で断続的に営まれたとみられている。

「板蓋宮跡」のままでは混乱を招く。史跡指定から45年目の今年、「飛鳥宮跡」の総称に改められた。

飛鳥から藤原宮、平城宮へ。宮殿内の施設の配置や用途の変化は、統治機構の発展過程を解き明かす手掛かりとなっている。周辺では同時代の官営工房跡や庭園跡といった多彩な遺構が相次いで発見され、木簡の出土も約1万5千点に達した。この国の原初の姿が浮かび上がりつつある。

名称変更と軌を一にして10月、奈良県は飛鳥宮跡の活用策を検討する委員会を設置。「2017年度末をメドに基本計画をまとめる」(公園緑地課)方針だ。宮殿を復元する案も出ている。周辺の景観と調和しつつ遺跡を次代に残す最適解を求め、議論が深まる。

文 大阪・文化担当 竹内義治

写真 淡島健人

《交通》近鉄飛鳥駅から周遊バスに乗り「岡天理教前」下車、徒歩約5分。同駅からレンタサイクルを利用すれば約15分。
《展示》飛鳥宮跡の発掘成果を紹介している奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)は、近鉄畝傍御陵前駅から徒歩約5分。奈良文化財研究所の飛鳥資料館(明日香村)でも飛鳥京の様々な資料を展示している。近鉄飛鳥駅から周遊バスに乗り「飛鳥資料館」下車。

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