一塊の石垣 信長の名残(時の回廊)
兵庫城跡 神戸市

2016/4/1 6:00
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織田信長が戦国末期、西国進出の重要拠点として築かせた兵庫城(神戸市兵庫区)。昨年までの発掘調査で位置や規模などが初めて明らかになった。発掘された石垣の一部は神戸市埋蔵文化財センター(同市西区)で展示され、往時の城の姿がうかがい知れる。

同センターに常設展示された石垣は幅約2.4メートル、高さ約1.5メートル。内堀の東北隅あたりのもので、現場で切り取り、周囲の土ごと固められた。石をほとんど加工せずに積み上げた野面積みは、間近で見ると圧倒されるような迫力がある。総重量約1.9トンにもなる。

■寺院から転用

市教育委員会の中谷正学芸員が石垣の端を指した。「この丸い部分は何だと思いますか」。明らかに加工された球形の石が1つ。「寺院の五輪塔です。こちらの平たい石は建物の礎石だったとみられます。築城の際、近郊の寺院から転用したのでしょう」。墓石や礎石の城郭への転用は姫路城や大和郡山城などでも確認されているが、兵庫城は特に顕著だ。全体の1割程度が転用石だという。

城郭が本格的な石垣を備えるようになったのは信長の小牧山城や安土城から。「大量の石材の確保が急務になり、寺院や墓地を石材の供給源にしたと考えられます」(中谷氏)。寺院が進んで墓石を差し出したとは考えにくい。どんないきさつがあったのか。石垣を前に、石材の一つ一つにも多くの人が関わる物語があったのだと思えてくる。

兵庫城は信長が瀬戸内の物流拠点だった兵庫津を押さえるため1580年、配下の池田恒興(つねおき)に築かせた。信長に謀反し敗れた荒木村重の拠点だった花隈城の建築資材を流用したともいわれる。江戸期に尼崎藩の支庁や幕府の直轄地となり、明治期に運河の開削で城跡の半分近くが消失した。

■城の発展示す

発掘調査は市中央卸売市場跡地での商業施設建設に伴うもので、2012年から昨年まで実施された。江戸期の史料などと照合し、兵庫城は二重の堀に囲まれた平城だったことが判明した。滋賀県立大学の中井均教授(城郭史)は城跡から出土した数多くの遺構の中でも「特に石垣に注目すべきです」と言う。

平地に石垣を積み上げる際、地盤沈下による崩落を防ぐため、石垣の基礎に胴木と呼ばれる材木を並べ、その上に石材を積むのは、信長が積極的に取り入れた建築手法だ。安土城でも見られ、兵庫城ではさらに本格的に導入されていた。

また、石材に溝を彫り、たがねとげんのうで石を割る矢穴工法も信長が城郭建築に広めたが、兵庫城でもやはり随所に用いられていた。石垣や礎石建物を備えた近世城郭は安土城に始まり、豊臣大坂城で完成する。「兵庫城は両城の間の発展過程を示す貴重な事例です」と中井教授は言う。

兵庫城跡は既に整地され、遺構を目にすることはできない。ただ、一塊の石垣だけが、謎多き信長の城の勇姿を今に伝えている。

文 大阪・文化担当 田村広済

写真 伊藤航

 《交通・見学》神戸市埋蔵文化財センターは同市営地下鉄西神・山手線西神中央駅から徒歩8分。開館時間は午前10時~午後5時。月曜など休館。入館無料。
 兵庫城跡は同地下鉄海岸線中央市場前駅すぐだが、現在は更地で遺構の見学はできない。
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