2019年5月27日(月)

源氏に加勢 鶏が導く 闘鶏神社(時の回廊)
和歌山県田辺市

2017/1/6 6:00
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今年の干支(えと)は酉(とり)。日本では古来、時を告げる鶏(にわとり)は神聖視され、占いとして闘鶏を行ったことが日本書紀に記されている。闘鶏は平安時代には「鶏合(とりあわせ)」と呼ばれて遊戯としても盛んになった。当時の鶏と人の関わりを今に伝えるのが、和歌山県田辺市の闘鶏(とうけい)神社だ。

多彩な様式の社殿が一直線に並ぶ

多彩な様式の社殿が一直線に並ぶ

創建には熊野三山を統括した役職「熊野別当」が関わったとされ、三山の別宮的な存在として信仰を集めた。もとは「田辺の新宮」「新(いま)熊野十二所権現」などと称されたが、次第に「鶏合(とりあわせ)権現」「闘鶏宮」などと呼ばれるようになり、明治初年に現在の社名に改めた。その由来は源平合戦まで遡る。

■神意うかがう

時の熊野別当、湛増(たんぞう)は源氏と平氏のどちらに付くかに苦慮。田辺の新宮で神意をうかがうと、巫女(みこ)に「白旗(源氏)に付け」と託宣があった。さらに赤白の鶏を7羽ずつ闘わせると、平氏に見立てた赤い鶏は皆、負けて逃げた。湛増は源氏への加勢を決め、軍船200余隻を引き連れて壇ノ浦に向かったという。平家物語などで知られた故事だ。

境内は熊野古道の中辺路(なかへち)と大辺路(おおへち)の分岐点に近く、昨年10月に世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録された。同じ月には西殿、本殿、上殿、中殿、下殿、八百萬殿の社殿6棟が国重要文化財に指定されることも内定した。

本殿と上殿は熊野造り、西殿は入(い)り母屋(もや)造り、中殿と下殿は流(ながれ)造り、八百萬殿は春日造り。多様な建築様式が東西一列に並ぶ。鳥居の奥で様々な曲線を描く屋根の勾配が重なり合い、不思議な調和を形づくる。

熊野三山で成立した伝統的な社殿の配置だが、「他の神社では一部のみ残っていたり変更が加えられていたりする例が多く、6棟が一直線に並ぶ姿を保っているのは県内ではこの神社だけ。全国でも貴重で、紀南を代表する神社建築だ」と同県教育庁文化遺産課の川戸章寛主査は話す。

■「弁慶生誕」前面に

闘鶏の故事を伝える湛増(右)と弁慶の像

闘鶏の故事を伝える湛増(右)と弁慶の像

豊臣秀吉の紀州攻めの際に戦禍で荒廃したが、紀州徳川家の家老、安藤氏の手で再興。現存する社殿は17世紀後半から18世紀前半にかけて再建されたものだ。

境内には、闘鶏を並んで見守る湛増と武蔵坊弁慶の像が立つ。弁慶は湛増の子で田辺出身との伝説があるという。確証はないが、地元は「弁慶生誕の地」を熱心にアピールしている。

長沢好晃宮司によると「いつ闘鶏をするのか、と問い合わせが時々あるが、神社の行事では行ってない」。昔は神社で鶏を飼っていたが、早朝の鳴き声に苦情が出たりイタチなどに襲われたりし、やめたそうだ。その代わり毎年秋に地域を挙げて開催する「弁慶まつり」で、境内にて上演される劇の中で闘鶏を再現しているという。

近年、熊野古道の名は海外でも高まり、境内に外国人の姿が増えている。「神社の歴史を外国語でどう説明すればよいか、行政とも相談して知恵を絞っている」と長沢宮司は話す。

文 大阪・文化担当 竹内義治

写真 淡嶋健人

《交通・見どころ》JR紀伊田辺駅下車、徒歩5分。同駅から徒歩約10分の場所に博物学・民俗学の奇才、南方熊楠(1867~1941年)の邸宅と顕彰館がある。熊楠の妻、松枝は闘鶏神社の宮司の娘。境内にある仮庵山(かりほやま)の樹木が伐採されそうになった際には熊楠が保護に尽力したという。

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