東大寺にはかつて、高さ100メートルともいわれる日本最大級の七重塔があった。大和のシンボルを再建したい――。平安時代に焼け落ちた後に仏僧などの間で思いが募り、鎌倉時代にいったん再建。戦後の日本万国博覧会(大阪万博)でもレプリカが建てられた。今年になって塔の瓦が出土、基壇の解明も進む。実像が解き明かされるにつれ、三たび再建への期待が高まる。
■東西の2塔焼失
平安時代編さんの「東大寺要録」や「朝野群載」などによると、東大寺には8世紀半ば、100メートル級の巨大な東塔と西塔が建てられた。ところが平安中期に西塔を焼失。1180年には平清盛が五男の重衡に源氏と連携し始めた南都の追討を命じ、焼き打ちで東塔も焼失した。その後鎌倉時代に高僧、重源らが東塔再建に動き、13世紀に完成するが14世紀に再び落雷で焼失してしまう。
七重塔は東大寺や大和にとって一体どんな意味があったのか。奈良文化財研究所の箱崎和久遺構研究室長は「東大寺は全国の国分寺の中心である総国分寺で、それにふさわしい塔が必要だった。塔は本来、仏舎利を収める場所だが、威容を誇示する意味もあった」と話す。塔は寺や地域の象徴でもあったのだ。
「日本人が夢みた理想のシンボル」。戦後、七重塔を復活させたのが1970年の大阪万博に出展した古河グループの古河三水会だ。パビリオンに高さ86メートルのレプリカを建て、冊子にこう意義を記した。本物と同様、頂には金属製の飾りの相輪(そうりん)(23メートル)を掲げた。塔は万博終了後に解体されたが、相輪は東大寺に寄贈され、大仏殿を見つめる。
■基壇の寸法判明
そして今、三たび再建への思いが強まっている。というのも、今年に入り当時の実像を映し出す発見が相次いでいるからだ。4月には東塔跡から「七」と書かれた鎌倉時代の瓦が出土したことが明らかになった。七重塔を飾った可能性が高い。今月初旬には創建時の基壇が約24メートル四方だったことも公表された。「奈良時代の塔の規模の根拠を得ることができ、他の塔や中国、韓国との比較の基礎となる」(東大寺境内史跡整備計画室の南部裕樹室長)
東大寺にとって再建は大きな願いだ。「修二会(お水取り)の祈願文にもあり、途絶えた法要を復活する意義もある」というのは橋村公英執事長。「ただ、現在の発掘は史跡整備が目的。再建となると多くの方々の賛同が欠かせない」
「天平の人々が英知と技術を結集させたのが七重塔」と指摘するのは古河三水会事務局の担当者。同会は今月末から相輪に洋金粉の吹き付けなどを行う。約15年ぶりの修理で機運づくりに一役買う。
日本は2025年の大阪万博招致に動き始めた。20年には東京五輪もあり、七重塔を再び世界発信する好機だ。相輪のレプリカの案内板はこう結ぶ。「何時(いつ)の日か後世に遺(のこ)すべき優れた七重塔が大地に湧出する日を宿願とする」
文 奈良支局長 浜部貴司
写真 三村幸作
《交通・見どころ》近鉄奈良駅から東へ徒歩20分。東大寺南大門をくぐり、鏡池の東側にあるのが東塔跡。その北西側に相輪のレプリカがある。本物同様に宝珠、九輪、露盤など7つの部位で構成。日英博覧会出展の模型は大仏殿奥にある。2つの七重塔がかつての伽藍(がらん)の荘厳さを物語る。