守り抜かれる 風情の庵 落柿舎(時の回廊)
蕉風伝える 京都・嵯峨野

2014/11/28付
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京都・嵯峨野にある草庵(そうあん)「落柿舎(らくししゃ)」は、江戸前期の俳人、向井去来と師の松尾芭蕉の事績を今に伝える。庭の手入れは行き届き、この時期は紅葉や赤く色づいた柿の実が興趣を添える。今に至るまでには何度も荒廃の危機があり、その都度、有志が現れて維持されてきた。

建物は4畳半、3畳と、2畳3室の計5室から成る。現在は公益財団法人が運営し、季刊誌の発行など俳諧の振興活動に用いられている。

■40本の柿の木由来

落柿舎の名は去来の時代、庭に植わっていた40本の柿の木に由来する。ある時、柿の実を商人が買い付ける約束をして帰ったが、その夜のうちにほとんど落ちてしまい、去来がそう呼ぶようになった。

芭蕉は、落柿舎に住んでいた去来を1689年を皮切りに計3度訪ねている。91年には半月余り滞在し、門弟の動静や自身の心境を表す「嵯峨日記」をつづった。

落柿舎の業務を取り仕切る執事、土手川雄二さんによると、現在の草庵は去来が没して66年たった1770年、俳人の井上重厚が再興した。

去来の庵(いおり)が朽ち果てて所在地も定かでなくなったため、重厚は去来の句「柿主(かきぬし)や梢(こずえ)はちかきあらし山」の風趣にかなう場所として天龍寺の塔頭(たっちゅう)の一つ、弘源寺の境内を選び、落柿舎としたという。

ところが再興から20年足らずで弘源寺から土地の返還を要請され、庵は同寺の老僧の隠居所「捨庵」として使われた。落柿舎はその後100年ほど、嵯峨野の別の地に庵を構えるなど転々とする。

■明治で元の位置に

明治時代になって「捨庵」が売りに出され、嵯峨の旧家が譲り受けて俳人の山鹿(やまが)栢年(はくねん)に提供。落柿舎は元の位置に戻り、栢年が庵主(あんしゅ)に就いた。

昭和になると落柿舎は再び荒れかけた。これを耳にした新聞記者で俳人の永井瓢齋(ひょうさい)や工藤芝蘭子(しらんし)ら8人が1937年、資金を出し合って買い取り、保存会を設立。庵主に就いた瓢齋は終戦の10日前に空襲で亡くなり、戦後に芝蘭子が庵主を継ぐ。

草庵の整備に努めた芝蘭子が71年に病没すると、彼と懇意だった保田與重郎(よじゅうろう)が一代をはさんだ後、庵主に就いた。保田は戦前、同人誌「日本浪曼派(ろうまんは)」創刊の中心になった文芸評論家。戦後は京都市に設立された教育図書出版社「新学社」の会長職にあり、この関係で芝蘭子の没後は主に新学社が財政面で落柿舎を支えた。

現在の庵主は保田との縁で、直木賞作家の伊藤桂一さんが務めている。

落柿舎の柱には投句箱を掛け、秀句を選んで季刊誌に掲載している。年に5000ほどある投句から最優秀作を選んで「投句大賞」を授与するなど、俳句の振興につなげている。

落柿舎を訪れる人は現在、年間約5万人。入庵料だけでは管理や運営の費用を賄えず、不足分は現在も新学社が補っている。落柿舎を運営する公益財団法人理事長でもある中井武文・新学社会長は「先人の志を継ぎ、会社がある限り落柿舎の存続に尽力する」と話している。

文 編集委員 小橋弘之

写真 三村幸作

<より道> 幾多の文学作品の舞台に

落柿舎のある京都市右京区嵯峨野は平安時代から景勝の地として知られ、数多くの公家や文人らが山荘や寺院が建ててきた。

公家で歌人の藤原定家も嵯峨野の西側にある小倉山の麓に山荘を設け、ここで「小倉百人一首」を選んだとされる。

歌人の清少納言は随筆「枕草子」で「野は嵯峨野」と愛(め)で、歌枕の地ともされた。

文学作品の舞台にもなってきた。その一つが、美しい竹林で観光客に人気の小道の途中にある野宮(ののみや)神社だ。かつて天皇の代理で伊勢神宮に使える斎宮が伊勢に赴く前、この神社で身を清めた。

「源氏物語」の「賢木(さかき)」の帖(じょう)では、六条御息所(みやすどころ)が斎宮とともに伊勢に下る前に滞在した場所として描かれている。この「賢木」を基に、能の「野宮」が作られた。

嵯峨野の竹林は、松尾芭蕉や与謝蕪村が俳句に詠んでいる。

この地域には天龍寺と大覚寺、紅葉の名所とされる常寂光寺や二尊院もあり、桂川に架かる渡月橋を含め、どんなコースを散策しても楽しめる場所だ。

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