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遷都思わす院政の夢 鳥羽離宮跡(時の回廊)

京都市

平安時代末、京都南郊の鴨川と桂川が合流する鼻先に、離宮が整備された。移ってきたのは皇位を退いた上皇。公務の制約や藤原摂関家の干渉を逃れ、朝廷の人事権だけは握っていた。鳥羽離宮といい、院政の都だった。

甲子園26個分

「鼻先」と書いたが、離宮の総面積は約100ヘクタール。甲子園球場約26個分だ。水郷ともいえるこの地に、大規模な園池が造られ、その周囲に南殿、北殿、東殿といった施設が整備された。

当時の歴史書「扶桑略記」によれば、院の御所・政庁のほか寺院、近習の貴族や侍臣などが宅地を与えられて建物を造るので「都遷(うつ)り」のようなにぎやかさだったという。仏像を制作する工房や、物資の集荷拠点を思わせる「御倉町」さえあった。

着手したのは白河天皇。譲位後の御所として建造した。備前守・藤原季綱(すえつな)がこの地に保有していた山荘を献上し、讃岐守・高階泰仲(やすなか)が御所を造った。備前守や讃岐守は、現在の岡山県や香川県の知事に近い。貴族とはいえ、摂政・関白といった要職とは縁の薄い、言い換えれば、天皇には容易に近づけない階層だった。

「受領層とよばれる貴族です。位階は高くないが、地方在任中に蓄財するので実入りはいい。平安後期には新興階級として存在感を高めていた。受領層はとにかく言うことをよく聞くと、上皇や法皇は手なずけて重用していた」。こう説明するのは、鳥羽離宮跡の発掘調査に長く携わった鈴木久男京都産業大学教授。

「なにしろ、白河天皇はまだ8歳だった皇子(堀河天皇)に譲位して43年間院政を敷く。ここに自分の墓所まで定めるぐらいだから、よほど気に入ったのでしょう」(鈴木教授)。離宮には白河天皇のほか、孫の鳥羽天皇、その子の近衛天皇の陵がある。

極楽浄土を意識した園池が整備されるなど、別荘的な面ばかり強調されがちだが、半面でこの一帯は交通の要衝でもあった。西国からの物資が瀬戸内海・大阪湾を経て、淀川をさかのぼって来る。その船便がたどりつく津が、この離宮の一角にあった。

京都市の生涯学習施設、京都アスニー京都市平安京創生館には、当時の復元模型がある。荷揚げされた物資は鳥羽造道(とばのつくりみち)という直線道路を通じて、洛中に運ばれた。この鳥羽造道は、平安京の南北を貫く基幹道、朱雀大路につながっていた。

物流拠点の命脈

「荷揚げ拠点で、幹線道の玄関口。経済的なうまみのある地だったのでしょう」(同館を管理する財団の長宗繁一専門主事)。

武家政権が鎌倉に成立すると、受領層は没落。これに伴い離宮も廃れていく。

現在は、寺社の安楽寿院、城南宮などが当時のよすがをとどめるが、大半は住宅地に変わっている。ただ、名神高速道、阪神高速京都線といった幹線道路が近くで交差するほか運輸会社の倉庫なども点在しており、交通の要衝としての命脈は今も健在だ。

文 編集委員 岡松卓也

写真 山本博文

《交通・見学》 安楽寿院は京都市営地下鉄・近鉄竹田駅から徒歩約10分。同院は鳥羽上皇が建てた寺。上皇自身と、16歳で亡くなった近衛天皇の陵墓がすぐそばにある。近衛天皇の陵は多宝塔が残る日本で唯一の天皇陵だ。鴨川は現在、当時より大きく西寄りを流れている。

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