不ぞろい 古都の奥深さ 2つの塔抱く興福寺(時の回廊) - 日本経済新聞
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不ぞろい 古都の奥深さ 2つの塔抱く興福寺(時の回廊)

奈良市

いにしえの塔が2つ残る寺は少ない。奈良市の興福寺と奈良県葛城市の当麻寺だけだ。薬師寺も2塔あるが、西塔は1981年に再建したもの。また、東西対称に配置され同じ階層の塔が多いなか、興福寺は東西非対称で、方や五重塔、方や三重塔だ。なぜ不ぞろいな塔があるのだろうか。

焼失繰り返す

「三重塔は謎を秘めた塔です」と言うのは興福寺の辻明俊執事。崇徳天皇の中宮、皇嘉門院聖子が1143年に建立した。藤原氏出身で、藤原氏の氏寺である興福寺に建立したのは自然な流れだ。ただ、興福寺の創建は710年。400年以上も後の世にどんな目的で建立したのか。興福寺の他の堂塔のような記録がなく、第一の謎だ。

初代三重塔は建立から40年にも満たない1180年に平氏の焼き打ちで焼失した。貴族から武家への政権移行期だが、国学院大学文学部史学科の青木敬准教授によると「平安末期から中世にかけては興福寺が隆盛を極めた時代」。興福寺の歴史は火災の歴史ともいえ、堂塔の焼失と再建を繰り返した。三重塔も経済力をバックに建立、再建されたのかもしれない。

現存する三重塔は、その建築様式から鎌倉時代の建物と位置づけられる。ただ、再建時期も記録になく、この点も謎だ。1210年ごろ再建された北円堂とともに現存の堂塔では最古とされるが、どちらが古いかはわからない。

三重塔の柱などの部材は細い。重力を逃がして柱を細くできる平安期の新工法で、京都の工匠が得意とする。興福寺には創建時と同じ建物を再建する決まりがあることから、「創建時も再建時も京都の工匠が従事したことが推察される」(青木准教授)。重厚な堂塔が立ち並ぶ興福寺では異質だ。

後付けで形成か

もっとも青木准教授によると、興福寺は中金堂を中心に南大門や中門、講堂で構成する南北一直線の伽藍(がらん)をまず整備。その後、中金堂の東に東金堂と五重塔、西には西金堂が建てられた。伽藍に一貫した計画がなく、後付けで形成されたならば、2塔の配置が東西対称ではなく、階層や趣が異なるのもうなずける。

三重塔は中心の伽藍から離れた南西の外れに建つ。奈良のシンボル的存在である五重塔に比べ、同じ国宝でも目立たない。なぜこの位置に建設されたのかが第三の謎。青木准教授は「当時は子院も含めぎっちり立ち並んでおり、ここしか場所が無かったのではないか」と推測する。

三重塔は毎年7月7日に開扉され、五重塔は不定期に開扉されてきたが、今年初めて同時開扉された。五重塔は初層内に収まる4組の三尊像を拝んで一周できる広さがあり、第2層に続く階段もある。一方、三重塔の内部は狭く、仏像を外から拝む。階段はなく上ることもできない。

規模の違いが鮮明な2つの塔。謎多く目立たない脇役の存在が、古都の奥深さを一層感じさせる。

文 大阪地方部 清水英徳

写真 三村幸作

 《交通・ガイド》興福寺へは近鉄奈良駅から徒歩5分。
 一帯にはもともと、元興寺五重塔、春日大社東西五重塔、東大寺東西七重塔があり、興福寺の2塔を含めて計7基建つ「塔の町」だった。しかし時代が下るごとに落雷などで失われ、江戸時代末期に元興寺の塔が焼失。現存するのは興福寺の2塔のみだ。各塔をしのぶ遺構として、基壇や礎石がある。

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