庶民励ます柔和な笑み 清源寺の木喰仏(時の回廊)
京都府南丹市
丸い体に丸い笑顔。江戸時代後期の僧、木喰(もくじき)は全国各地を回りながら仏像を彫った。独特の柔和な表情から「微笑仏(みしょうぶつ)」と呼ばれ、その数は1千体を超すとされる。最晩年に立ち寄った清源寺(京都府南丹市)には専門家から最高傑作と評される十六羅漢や釈迦三尊など22体が伝わる。

羅漢の右手に杯、体の正面に抱えているのはどう見ても酒甕(さかがめ)だ。左手の袖で顔を隠しているが、その下はきっと笑っているのだろう。別の羅漢が目をむいている。まるで飲酒をとがめているようだが、どこか愛嬌(あいきょう)がある。
周りには穏やかな笑みを浮かべる羅漢、ニッと歯を見せる羅漢、ウインクする羅漢まで。コの字形に並ぶ22体はまさに宴会中だ。談笑する声が聞こえるような気がする。その中には自刻像とされる羅漢も紛れ込ませた。
異質なほど人間的
人間的な羅漢たちは「愉快に行こうや」と見る人を励ましている。清源寺の小野崎弘顕住職は「『笑いがとまらへん』とゲラゲラ笑う人がいる。静かに涙を流す人も。来る時は険しい表情でも、仏さんに力をもらい、拝観者は皆にこやかな顔で帰る」という。
全国木喰研究会の小島梯次評議員は「清源寺の22体は木喰仏の中でも、異質なほどユーモラスで人間らしい。杯を持つなど破戒的で驚く。木喰の気持ちの充実や高揚が現れている」と解説する。
木喰の生年は1718年が定説。1810年に93歳で入寂した。清源寺を訪れたのは89歳の時だった。5カ月滞在し、28体彫ったとされる。当時、少年だった清源寺13世佛海が「十六羅漢由来記」で木喰の風体を「髪もひげも真っ白で、背の高さは6尺(約180センチ)」と書き残した。
飢饉(ききん)や火山の噴火が頻発した18世紀、木喰は全国を遍歴しながら庶民のために像を彫った。各地の社寺に「納経帳」を納め、旅の記録を「宿帳」に残した。彫った像の背にも日付や年齢を書いたため、旅の足取りが追跡できる。
功徳広めるため
端正で荘厳な鎌倉時代までの仏像と違い、木喰仏は粗削りで簡素だ。木喰が造像を始めたのは60歳を過ぎてからで、彫る訓練を受けたわけでもない。廻国(かいこく)する僧として庶民の中に生きた。造像は芸術ではなく、功徳を広めるためのものだった。小島氏は「初期の木喰仏は森厳な表情をしている。ほほ笑みがみられるのは80歳ごろの像から。親しみやすさを出そうとしたのではないか」と指摘する。
造像は年を重ねるほど輝きを増した。85歳の時、故郷の丸畑(現在の山梨県身延町)で村人たちから「四国霊場八十八体仏を彫ってほしい」と頼まれ、引き受ける。独特のほほ笑みや放射状の頭光(ずこう)などの「木喰様式」はここに完成する。
木喰は造像の経緯をつづった「四国堂心願鏡」に、最初は協力した村人たちが次第に対立し、離脱していったと記す。この時の心境を詠んだ。
みな人の
こころをまるく
まん丸に
どこもかしこも
まるくまん丸
木喰仏が人間味を増す晩年。木喰はこう願いながら像を刻んだのかもしれない。
文 シニアエディター 木下修臣
写真 尾城徹雄
<より道>彫った像 29体との説も
これまでに確認された木喰仏は720体ある。大正時代に民芸運動を進めた柳宗悦(やなぎむねよし)が再評価してから、発見や研究が進んだが、今も各地に埋もれている可能性は高い。

昨年9月、海傳寺(青森県六戸町)で釈迦如来像が見つかった。東北6県では初めてになる。小島梯次氏が赤外線写真で木喰の初期の花押(かおう)を確認した。北海道に渡る前、61歳の時に彫ったとみられる最も初期の像だ。
62歳のころ、北海道で彫った子安地蔵が最古とされてきたため、100年前の造仏聖、円空(えんくう)の仏像を見て造像を始めたと考えられていた。「新たな仏像は定説を覆す発見となった」(小島氏)。
清源寺では木喰が去った翌年に十六羅漢などを安置するため羅漢堂が建てられた。現在の収納庫には40年前に移された。
清源寺で彫ったのは28体ではなく29体だった、とする説もある。こんな話が寺に伝わっている。毎日、そば粉を運んできた少年に木喰は「誰にも言うな、誰にも見せるな」と言って聖観世音菩薩(ぼさつ)を渡した。今も檀家の1つに秘蔵されているという。寺には写真だけが飾られている。