2019年8月21日(水)

官兵衛伝説 堅固な舞台(時の回廊)
有岡城 兵庫県伊丹市

2015/12/18 6:00
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有岡城(兵庫県伊丹市)と聞いて思い浮かべる人物は荒木村重、そして黒田官兵衛(孝高〈よしたか〉、如水)だろう。近年テレビドラマなどで注目が集まる城の当時の姿は謎が多いが、発掘調査で浮き彫りになってきた。

幽閉の証拠なし

戦国時代真っただ中の1578年、有岡城主の村重は主君の織田信長に反旗を翻し籠城。村重と親しかった官兵衛は翻意を促そうと城に赴くが奏功せず、村重によって約1年、狭い土牢(どろう)に幽閉されたという。

司馬遼太郎の「播磨灘物語」や吉川英治の「黒田如水」など小説やドラマはこの幽閉を官兵衛の一大転機と位置付け、物語を膨らませる。劣悪な環境にいたため、体を壊し、脚に障害を負ったとする説もある。

「播磨灘物語」では獣の檻(おり)のような空間に閉じ込められた官兵衛は、牢のひさしにけなげに伸びる藤の芽を見つけ、生き抜く気力を得る。牢を出た後は別人のようなたくましさ、したたかさを身に付けていた。

ところが城跡発掘に携わる伊丹市教育委員会の中畔明日香課長は言う。「官兵衛が有岡城で幽閉された確たる証拠はありません」

幽閉説の根拠は官兵衛死去から80年以上の後、黒田家が編さんさせた記録「黒田家譜」。落城した際、官兵衛を家臣が土牢から救出したと記す。だが家譜は、家格を高めるために俗説や不確かな逸話を多数盛り込んだとされ、信頼性を疑問視する見方は根強い。

官兵衛が生きた時代の文書も集めた「黒田家文書」は幽閉に全く触れていない。「官兵衛が城に赴いたのは事実と推定できますが、軟禁という形で城内にとどめ置かれたという見方もできます」と中畔氏。

有岡城の遺構は乏しい。有岡城跡史跡公園に本丸の石垣跡や建物の礎石跡、土塁跡などがわずかに残るだけだ。明治時代に現在のJR伊丹駅を整備した際、本丸跡の大部分が消失した。石垣跡にしても出土した石を改めて積み直したため、当時の姿をどれだけとどめているか疑わしい。官兵衛幽閉を示す遺構は皆無だ。

「惣構」構造で最古

城下町を含めた城郭全体を土塁や堀で囲んだ構造を「惣構(そうがまえ)」と呼ぶが、有岡城は惣構の城郭で最古とされる。天野忠幸関西大学非常勤講師(日本中世史)は「信長軍の総攻撃に1年以上も持ちこたえた希少な城。惣構がいかに堅固かを証明した点でもっと注目されてよい」と強調、"官兵衛幽閉の城"というイメージを超えた評価を求める。

現在も続く発掘調査で城郭は南北1.7キロ、東西800メートルに及び、北、西、南に砦(とりで)が置かれていたと判明。1577年に訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは「甚だ壮大にして見事なる城」と称賛した。

村重が有岡城を築いたのは1574年。本格的な近代城郭の始まりとされる信長の安土城より2年早い。当時、信長は大坂の本願寺や中国地方の毛利氏と激しく対立。最も信頼していた配下の一人の村重に前線基地として城を築かせたとされる。村重謀反の理由は諸説あり、城の姿と同様、大きな謎に包まれている。

文 大阪・文化担当 田村広済

写真 伊藤航

 《交通》有岡城跡史跡公園はJR宝塚線伊丹駅すぐ。石垣や土塁、井戸、建物の礎石などの跡が整備されている。見学は自由。
 城北側の砦(とりで)だった「岸の砦」の跡は阪急伊丹線・伊丹駅から北へ徒歩10分の猪名野神社境内にある。

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