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100年の夢 本四つなぐ 明石 世界一のつり橋(2)
軌跡

2016/12/14 6:00
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本州と四国に橋を架ける構想は明治・大正期にさかのぼる。1889年に香川県議、大久保諶之丞が現在の瀬戸大橋にあたる橋を提案、1914年には徳島県の衆院議員、中川虎之助が鳴門架橋を訴えた。当時、米国ではブルックリン橋やマンハッタン橋など巨大なつり橋が完成していた。

原口忠次郎をたたえるモニュメント「夢レンズ」(神戸市垂水区の舞子公園)

原口忠次郎をたたえるモニュメント「夢レンズ」(神戸市垂水区の舞子公園)

昭和に入り、40年に内務省神戸土木出張所長の原口忠次郎が鳴門海峡に橋を架けようと動く。主塔の間隔が1280メートルの米ゴールデンゲート橋の完成を踏まえた現実的な発案だった。

しかし時は軍事優先で立ち消えに。原口は後に自叙伝で「もし橋が落ちでもしたらどうするのか。あそこを軍艦が通れなくなると国防上の重大問題だ」と海軍からしかられたと述懐している。

本四連絡橋への期待が高まるのは戦後のことだ。兵庫―徳島間にフェリーが就航して間もない55年、高松沖で連絡船・紫雲丸が衝突・沈没し、修学旅行生を含む168人が命を落とした。前年には津軽海峡で国内海難史で最悪とされる洞爺丸の沈没事故が発生。このころから中四国で建設の推進運動が始まった。

一方、原口は49年に神戸市長に当選、「市長は白昼に夢を見ているのではないか」などと批判されながらも、今度は明石海峡に橋を架けようと国や経済界に協力を要請。機運の高まりを受けて国は本州と四国を結ぶ複数のルートの調査を開始し、69年に神戸―鳴門を含む3ルートが決定した。

事業主体の本州四国連絡橋公団(現本州四国連絡高速道路)が70年に発足。第1次オイルショックの影響で着工が遅れたものの、75年に広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶルートを皮切りに順次建設が始まった。明石海峡大橋の工事開始は88年。大久保の提案から約100年がたっていた。

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