関白就任 計略の舞台裏 醍醐寺(時の回廊)
秀吉が庭園設計 京都市伏見区

2014/8/15付
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猛暑の中でも、縁側を渡るかすかな風に涼が宿る。世界遺産、醍醐寺(京都市伏見区)の三宝院庭園。国特別史跡・特別名勝に指定されたこの庭園は、太閤秀吉が基本設計し、庭石の配置まで口うるさく指図したという。豪勢を好んだ天下人らしい趣味は、庭園に面した三宝院の建物の隅々にまで及んでいるようだ。

秀吉の豪勢な趣味が反映された醍醐寺の三宝院庭園(京都市伏見区)

秀吉の豪勢な趣味が反映された醍醐寺の三宝院庭園(京都市伏見区)

晩年には700本の桜を移植し、子の秀頼、五大老の前田利家らを交えて盛大な花見。それに前後して三宝院の整備、五重塔の修理や金堂の再興――。持ち前の気前の良さもあろうが、秀吉にとって、醍醐寺は特別な寺だった。

■座主が一役買う?

「当時の醍醐寺座主だった僧、義演が秀吉の関白就任劇に関わっていたようです。義演の実兄、二条昭実(あきざね)が1585年、在任わずか半年で、秀吉に譲るべく関白を辞任しているのです。一方、秀吉が7月11日、関白に就任すると、今度は翌日に義演が准后(じゅごう)に宣下されています」。仲田順和(じゅんな)・醍醐寺座主がこう説明してくれた。

京都市営地下鉄東西線の醍醐駅から徒歩10分

京都市営地下鉄東西線の醍醐駅から徒歩10分

准后は皇后、皇太后、太皇太后に準じる高い称号で、皇族や貴族だけでなく一部の室町将軍や高僧にも宣下された。義演の准后宣下は、秀吉の根回しで勅許を得たという。

織田信長の衣鉢を継ぎ、天下平定を進めつつあった当時の羽柴秀吉は、より高い地位と権威を切望していた。卓越したコミュニケーション力「人たらし」で着々と味方を増やしてきたものの、なお四国、九州、関東、東北と、当時、秀吉にまつろわぬ勢力は多かったからだ。

関白という最高位の地位さえ手に入れば、秀吉が発する司令や軍事行動は公的、官軍的色彩を帯び、権威と重みが増す。少なくとも全国制覇の追い風にはなる。

ただ、武門の棟梁(とうりょう)では源頼朝や足利尊氏でさえ手にしていない地位だけに、関白就任のハードルは高かった。関白は藤原氏でも嫡流の五摂家(近衛、鷹司((たかつかさ))、一条、二条、九条の5家)しか就任できない。まして貴族社会は前例主義。一介の放浪生活者から身を起こしたといわれる秀吉が関白の地位を望むのは無謀に近かった。

すでに内大臣の職にあった秀吉は、当初、左大臣への昇格を希望した。一方、左大臣だった近衛信輔は関白の地位を所望。ところが二条昭実は在任1年に満たないままでの関白辞任には応じられないと抵抗した。近衛・二条両家の反目が強まる中、両家の言い分を預かった秀吉は「いずれを非としても家の破滅」と双方をけん制した。

■日記は内幕触れず

 そこで近衛信輔にバトンタッチするまでの肩代わりという名目で秀吉がちゃっかり関白に就任することになった。「五摂家でなければ」という前提条件については、秀吉は元関白の近衛前久の猶子(ゆうし、一種の養子)となり、この問題をクリアしてしまう。

このあたり、どんなやりとりがあったか。座主だった義演は日記を残しているが「あいにく日記は1596年から。関白就任劇の内幕には触れていません」(長瀬福男・総本山醍醐寺公室室長)。

文 編集委員 岡松卓也

写真 三村幸作

<より道> 特別展、ゆかりの品集結

醍醐寺の国宝62件、重要文化財85件ほかを集めた特別展「国宝 醍醐寺のすべて―密教のほとけと聖教(しょうぎょう)」が、9月15日まで奈良国立博物館(奈良市)で開かれている。

「醍醐寺のすべて」に展示されている豊臣秀吉像(奈良市の奈良国立博物館)

「醍醐寺のすべて」に展示されている豊臣秀吉像(奈良市の奈良国立博物館)

上醍醐にある五大堂から初めてそろって山を下りた五大明王像のほか、「弥勒菩薩坐(みろくぼさつざ)像) 快慶作」など、9世紀末から続く寺の歴史を網羅したような趣向で、見どころは多い。

秀吉ゆかりでは「豊臣秀吉像」のほか「義演像」、茶わんの「金天目(きんてんもく)・金天目台」などが注目を集める。損壊の進んでいた寺は、秀吉の手厚い支援により勢いを取り戻す。

「醍醐花見短冊」は秀吉が晩年に催した花見で主な参加者が詠んだ歌131首の短冊を貼り込んだものだ。秀吉の「あらためて なをかへてみん 深雪山 うづもるはなも あらはれにけり」は、どんな心理を詠み込んだのだろうか。

花見に先立つ13年前、関白就任に際し藤原姓を名のった秀吉は翌年、今度は豊臣に改姓。以後、天下人の階段を駆け上がる。「埋もる花」を自身にかけて往時を振り返ったのでは。そんな想像もしてみたくなる。

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