2019年7月17日(水)

徳政の喜びか 民の願いか 柳生街道「正長の土一揆」碑文(時の回廊)
奈良市

2014/9/12付
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奈良市柳生町の山中。市中心部へ至る古道、柳生街道の傍らに、石仏「疱瘡(ほうそう)地蔵」がたたずむ。地蔵像の向かって右下が四角く彫り凹められ、その中に、風化して読みにくいが銘文が刻んである。

山中にたたずむ疱瘡地蔵。正長の土一揆を民衆側が刻んだ碑文が残る(奈良市)=ストロボ使用

山中にたたずむ疱瘡地蔵。正長の土一揆を民衆側が刻んだ碑文が残る(奈良市)=ストロボ使用

「正長(しょうちょう)元年ヨリ サキ者カンヘ四カン カウニヲ井メアル ヘカラス(正長元年より先、神戸4カ郷に負い目あるべからず)」

神戸4カ郷とは柳生など4村を指す。4村では正長元年(1428年)以前の債務はなくなった――。借金棒引きや質流れした土地などの返還(徳政)を求め、民衆が金融業者や寺社らを襲った最初の徳政一揆「正長の土一揆」について、民衆が自ら記録した「正長元年柳生徳政碑」だ。

■4村が独自実施?

高校の日本史の教科書にも登場する名高い碑文だが、いつ、なぜ刻まれたのかについては諸説ある。徳政を勝ち取った喜びを刻んだ記念碑とする説。借金を悪霊と捉えた、厄除(やくよ)けのまじないとの説。後の時代に、正長元年のような徳政令をもう一度、との願いで彫られたとの説などだ。

京都女子大の早島大祐准教授は、このほど刊行された「岩波講座 日本歴史 第8巻」で「4村が独自に徳政を実施し、その定書(さだめがき)として刻んだのでは」と推察している。

この年、8月に近江、9月に京都・醍醐で徳政を求める一揆が勃発。それぞれ幕府に制圧された。だが11月2日に近江、奈良・生駒、南山城の3地域で蜂起した一揆勢は京都へ乱入し、奈良を挟撃した。騒動は河内や播磨などに拡大。11月25日に大和の守護、興福寺が徳政令を出すなどしたが、影響は長期に及んだ。

南山城の一揆勢は、神戸4カ郷を通って奈良へ押し寄せたとみられる。「村人は彼らへの対応を迫られ、興福寺より先に独自に徳政を実施したのでは」(早島准教授)

碑文の拓本。縦36センチ、横10.5センチの四角い凹みの中に刻んである=奈良市教育委員会提供

碑文の拓本。縦36センチ、横10.5センチの四角い凹みの中に刻んである=奈良市教育委員会提供

当時の法律は幕府や寺社、村などが発布し、並立していた。徳政令もそれぞれが出した。13年後に起きた「嘉吉の土一揆」の際、近江の村が独自の徳政令を出し、神社に掲示した木札が残っている。早島准教授は「神戸4カ郷でも、石仏の前で村民が協議して徳政の実施を決め、石に刻んだのだろう。当時の法のあり方を表している」と話す。

■侍・都市住民も参加

土一揆のとらえ方は変わりつつある。以前は商品経済の浸透や自治意識の高まりを背景に、債務を抱えた農民が飢饉(ききん)など自然災害を引き金に団結して村ごと蜂起した、と考えられていた。だが研究が進み、室町幕府の課役が民衆を圧迫していた社会状況と共に、時代が下ると一揆勢に侍や都市住民が加わる事例があるなど多様だった実態も分かってきた。広域情報網を握っていた運送販売業者(馬借<ばしゃく>)が中核を担ったとみられる。

柳生の徳政碑文は長い間忘れられ、関心を寄せる人はなかった。大正時代、この地で教鞭(きょうべん)を執っていた杉田定一氏が10年以上かけて読み解き、1925年に新聞で紹介されて世に知られるようになった。83年、国史跡に指定。「文化財として評価が定まる過程自体が、民衆の歴史の貴重な史料」とされている。

編集委員 竹内義治

写真 浦田晃之介

<より道>一揆の通り道?石仏が点在

徳政碑文が残る巨石に彫られた疱瘡(ほうそう)地蔵像には、元応元年(1319年)11月の銘が入っている。他にも天正年間(16世紀後期)の作とみられる五輪塔や阿弥陀如来像も刻んである。この場所は柳生と隣郷との境界にあたり、外部から村を守護するよう願いを込めて制作されたとみられる。

JRまたは近鉄の奈良駅から奈良交通バスに約50分乗り柳生下車、徒歩約20分。

JRまたは近鉄の奈良駅から奈良交通バスに約50分乗り柳生下車、徒歩約20分。

かつて疱瘡地蔵像は顔の部分が欠け落ちていた。奈良市埋蔵文化財調査センターの森下恵介所長は「顔の凹凸が名前の由来だったのでは」と話す。1969年、周辺から剥落した石片が見つかり、現在では修復された顔を拝むことができる。

柳生街道はところどころに石畳が残り、路傍に石仏が立つ(奈良市)

柳生街道はところどころに石畳が残り、路傍に石仏が立つ(奈良市)

以前は露天だったが16年前、保存のため覆い屋がかけられた。当時、整備を担当したのが森下所長。「石の上部には梁(はり)を置いたとみられる切り欠きや、束を立てたらしいほぞ穴などがある。元来、屋根があったとみられる」と説明する。

南山城から柳生へ押し寄せた一揆勢は、疱瘡地蔵の前を通り過ぎ、柳生街道を抜けて奈良を目指した可能性もある。傍らに石仏が幾つも点在し、一部に石畳が残って風情を漂わせるこの街道を、今は健脚自慢のハイカーらが行き交う。

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