戦国の築城 寺社に名残 穴太積みの石垣(時の回廊)
大津市坂本地区

2017/1/13 6:00
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大小の自然石を堅固に積み上げた穴太(あのう)積みの石垣が至るところで見られる大津市の坂本地区。ほとんどは江戸期、僧侶が住む里坊として築かれ、現在は里坊跡の料亭や民家、学校などにも穴太積みが残る。街全体で他に類を見ない歴史的景観をつくり出している。

自然石を巧みに組み合わせる穴太積みの石垣(滋賀院門跡)

自然石を巧みに組み合わせる穴太積みの石垣(滋賀院門跡)

穴太積みの呼称は高い技能を誇った近江の石工集団、穴太衆から。自然石をあまり加工せず積み上げる野面(のづら)積みの一種だが、穴太衆が手掛けた特別な石垣であることを強調するため、この呼称が用いられた。

■石工集団が割拠

坂本は長く穴太衆の拠点だった。滋賀院門跡や日吉大社、旧竹林院周辺の石垣は高さがあり、保存状態も良い。珍しい穴太積みの洞窟を持つ里坊跡も残る。いずれも大きな石の周りで小さな石ががっしりとかみ合い、いかにも頑丈そうだ。緑深い樹木に彩られ、耳をすませば小川のせせらぎが聞こえてくる風情。苔(こけ)むした石垣からは長い歳月の経過が感じられる。

穴太衆は大規模な石垣を備える近世城郭の建造で大きな力を発揮したと考えられる。だが「全国で穴太衆が築いた明確な証拠が残る城跡はほとんどありません」と、滋賀県文化財保護課の松下浩氏は言う。織田信長が穴太衆に石垣を築かせたと語られることが多い安土城も例外ではない。

近江は中世から山岳信仰が盛んで、山岳寺院は石垣を必要とした。山地は石が豊富で、熟練した石工が数多く生まれた。戦国末期から江戸初期の築城ブームで石垣の需要が爆発的に伸び、穴太衆も全国で活躍したと考えられるが「近江には他にも石工集団が多く存在し、当初から穴太衆だけが特別だったとは考えにくい」(松下氏)という。

■太平の世に継承

穴太積みによる人工の洞窟

穴太積みによる人工の洞窟

江戸中期に入ると築城ブームは終息し、石垣の需要は急減した。一方、比叡山の門前町として発展を続けた坂本は里坊の建造、整備のため石垣の需要が途絶えなかった。穴太衆は比叡山の土木営繕を務め、穴太積みの技術は坂本で受け継がれた。「穴太衆の名が文献に登場するのは江戸期以降。石垣のブランドとして徐々に確立されていったのでしょう」と松下氏はみる。

石垣の積み方は戦国末期から江戸期にかけて、野面積みから石の角や面を平たく加工して積み上げる打ち込み接(は)ぎ、方形の切り石を用いる切り込み接ぎへと発展した。技術の規格化で石垣の築城は容易になったが、堅固さでは野面積みが勝るとの見方は根強い。

穴太衆は野面積みの技を磨き続けた。坂本に本社を構える粟田建設は穴太衆の技術を現代に受け継ぎ、全国の城跡や寺院の石垣を整備する。江戸初期の初代から数えて15代目の粟田純徳社長は言う。「技術をマニュアル化できないのが穴太積み。長い年月を経ても崩れない石垣は丁寧な手仕事でしか生み出せない」と言う。石垣がどこまでも続く静かな坂本の街並みは、穴太衆の確かな技術によって往時の姿を今にとどめている。

文 大阪・文化担当 田村広済

写真 尾城徹雄

《交通》坂本の里坊群へは京阪坂本駅から歩いて5分ほど。滋賀院門跡を中心に約29ヘクタールにわたって広がり、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

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