宝塔だけが知る伽藍 法観寺八坂の塔(時の回廊)
京都市
古い社寺や遺跡に行くと思うことがある。「ここには往時、どんな建物があったのか」と。創建時の建物が失われていても、それをしのばせる礎石などの遺構がある寺院は多いが、通称「八坂の塔」(国の重要文化財)で知られる京都市の法観寺には遺構がない。東大寺のように塔を失った寺が多い中で、珍しくも塔だけ残った法観寺とはどんな寺だったのか。

往時の姿に諸説
「これが法観寺の姿を伝える絵図です」。住職の浅野全雄さんが巻物を見せてくれた。南から北に向かって門、塔、本堂が一直線に連なる四天王寺(大阪市)式の伽藍(がらん)が描かれており、室町時代初期のものだという。寺は1436年に炎上し、1440年に現存の五重塔だけが再興された。現在の姿から絵図にある寺院を想像するのは難しい。
浅野住職によると、聖徳太子が四天王寺を創建する際、木材を切り出したのが法観寺周辺。土産物店などが軒を連ねる街並みに当時の面影はないが、周囲は山林で、太く良質な樹木が取れたという。
寺の伽藍については、近畿大学文芸学部の網伸也教授が2013年、論文「八坂寺の伽藍と塼仏(せんぶつ)」で一石を投じた。「(法観寺は)四天王寺式や法隆寺式などの定型にとらわれない塔を中心にした伽藍で、本堂は(塔の)北東側にあったのではないか」と推測する。
伐採跡地に創建された法観寺は平地が狭く、特に南側が大きく落ち込んでいた。地形に制約があり、伽藍の重要な役割を果たす回廊をめぐらすのは無理とみる。滋賀県などには主要道路から目立つ位置に塔を配し、その斜め横に本堂などを建てた塔中心の寺があり、法観寺も同様だったのではないかという。
発掘調査難しく
法観寺では伽藍や規模の解明につながる礎石などが見つかっていない。一帯は京都有数の観光スポットで、過去、大規模な発掘調査が実施されなかったためだ。09年の小規模な発掘は貴重な機会で、大きな発見があった。

白鳳時代の遺物が出土したのだ。壁に立てかけて拝む小規模な三尊像(塼仏)で、この時期の高僧、道昭が中国の唐時代の三蔵法師の下での修業から持ち帰り、型を取って日本で盛んに複製された物だという。
発掘した京都市埋蔵文化財研究所の柏田有香調査課担当係長は「最後の最後に掘り当てた。土を払うとキラキラと光り、金箔が残っていた」と振り返る。調査報告書では「法観寺の創建が白鳳時代以前に遡るとの従来の見解の裏付けになる」と位置づけている。
法観寺の門には「日本最初之寶塔(ほうとう)」と書かれ、寺伝では聖徳太子の創建とされる。初代の塔は589年の建立で、四天王寺の創建より4年早い。
平安遷都のはるか前に建てられた塔は3度焼失しながら、その都度再建された。より重要な塔の再建を優先し、資金不足で本堂までお金が回らなかったのかもしれない。現存する塔は都を焼き尽くした応仁の乱も乗り越えた奇跡の塔として、今も京の町を見下ろしている。
文 大阪地方部 清水英徳
写真 浦田晃之介