2019年6月25日(火)

独りでいるより優しくて イーユン・リー著 1989年の事件と人生の虚しさ

2015/8/17付
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1989年の晩秋、北京で若い女性が毒に冒される。この女性――小艾(シャオアイ)は一命こそ取りとめるが脳に深刻なダメージを負い、以後21年も病院で過ごして生涯を閉じる。彼女は毒を盛られたのか。それとも自殺か。事件に関わったと思われるのは、いずれも16歳の泊陽(ボーヤン)という少年と、如玉(ルーユイ)と黙然(モーラン)という少女である。本書はこの3人の視点に寄り添いながら、徐々に真相を明かしていく。

(篠森ゆりこ訳、河出書房新社・2600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

(篠森ゆりこ訳、河出書房新社・2600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

小艾が長い苦しみを終えたとき、泊陽は北京で不動産業により財をなしたものの、援助交際で寂しさを紛らわす日々を送り、いずれもアメリカに渡った如玉と黙然のうち、前者は定職をもたずに根無し草的な生活を続け、後者は製薬会社に勤務しつつ、誰とも深く付き合わないことに安らぎを見出(みいだ)している。3人ともすでに離婚を経験していた。

この3つの孤独な人生の背景に小艾の事件があるのは間違いない。しかし彼らは事件の前から悩みを抱えてもいた。超秀才の姉の陰に隠れ、親から構われずに育った泊陽、出自の分からぬ孤児で、あらゆる他者を恐れつつ蔑んでいる如玉、この2人に比べて凡庸だと自覚し、嫉妬に苛(さいな)まれる黙然。小艾の事件は、三者三様の苦しみが不幸な化学変化を遂げた結果とも思える。その小艾の死をきっかけに、3人は改めて人生の虚(むな)しさに向き合い、孤独よりも愛すべきものを探し始める。

ここで重要になるのが、長い沈黙を強いられたもうひとりの主人公、小艾の視点である。1989年とは他でもない天安門事件の年であり、服毒前の小艾は公然と政府を批判して大学を退学させられていた。ただし、作者は小艾を殉教者として美化してもいない。彼女は6歳下の泊陽たちの憧れと畏怖、時に嫌悪の対象であり、政府への不満を押し殺す父親を臆病だと非難する厄介者でもあった。その小艾の沈黙を尻目に中国は空前の経済発展を遂げ、その恩恵に泊陽たちも浴している。小艾が美しく死ぬことを許されないのは、まさにこの恩恵が押し殺してきたものの声なき声を響かせるためではないか。

泊陽たちの虚しい内面が、生ける屍(しかばね)のごとき小艾と表裏一体であるならば、彼女の死が3人にもたらす変化は、他者への優しさという漂白された道徳に還元はできないはずだ。彼らの心理は、最後まで希望と諦観のあいだを微妙に揺れ動いている。しかし、本書が現実に敗れ去る個人を描いただけの作品でないことは、強調しておきたい。

(東京大学准教授 武田 将明)

[日本経済新聞朝刊2015年8月16日付]

独りでいるより優しくて

著者:イーユン リー
出版:河出書房新社
価格:2,808円(税込み)

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