サリンジャー D・シールズ、S・サレルノ著 冷徹、徹底的に実人生を追う

2015/7/22付
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傑出した者には敵が多い。『ライ麦畑でつかまえて』で知られるサリンジャーもそうだった。

(坪野圭介・樋口武志訳、KADOKAWA・4200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

(坪野圭介・樋口武志訳、KADOKAWA・4200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

自業自得の面もある。かつては評伝の出版に訴訟で抵抗した。やがて、その伝記作家は敵へ転じた。熱烈な手紙で女子大学生を誘惑し、あっさり捨てたりもした。後に彼女は復讐(ふくしゅう)の一冊を書く。また、執筆ばかりで子育てに関わらなかった。恨んだ子は、後に父の奇習の数々を暴露した。打ちのめされたサリンジャーが亡くなってはや五年。そして、ここに本書である。

九年に及ぶ調査で多くの新証言を集めた著者たちも、冷徹な目を作家に向けている。もともとドキュメンタリー映画から生まれた本だけに、取材の資金も人的資源もこれまでの評伝や暴露本とは桁違い。偶像破壊も、より徹底的で扇情的だ。

元恋人たちが証言する身体の「先天的な欠損」は初耳だし、本書の冒頭に置かれた過酷な戦争体験も、作家が戦場やユダヤ人収容所で見たであろう多くの死体の写真と共に生々しく語られる。著者によれば、これらがトラウマとなって後の人生を決定づけた。だから、男性の体も戦争も知らない少女たちに作家は執着したのだ、という。

今回発掘された手紙で、五十過ぎの作家は十代の少女に「一日中君のことが恋しかった」と書いていた。赤面ものだが、それもトラウマのなせる業か。病んだ作家がさらに東洋哲学に救いを求めた結果、現実を見失って作品に悪影響を及ぼした、というのが本書の見立てだ。

だが、本書で雑多に響き合う多くの証言は、著者の意図を超えて別の可能性も示唆している。現実が作品を生み出すというより、作家の実人生が虚構を後追いしていたようにも見えるのだ。『ライ麦』出版後に隠遁(いんとん)した家は、主人公が夢見た山荘のようだった、と実の娘は言う。「絵空事から現実が作られるようだった」と。また、浜辺で主人公が少女と戯れる短編を書いた一年後、作家自身も浜辺で少女を誘惑するのだった。

今は老女となったその少女を著者たちは探し出し、重い口を開かせた。分析や解釈よりも、そんな取材力が本書の一番の魅力だろう。結末では「四十五年間以上かけて書かれてきた作品の死後出版」の計画があることを明かす。『グラス家』と題された一冊、『ライ麦』の主人公を扱った作品、さらに別の長編と中編などが、二〇二〇年までに出版され始めるという。その中で、老いたサリンジャーは、未(いま)だ手の届かぬ何かを追いかけ続けていることだろう。

(北海道大学教授 竹内 康浩)

[日本経済新聞朝刊2015年7月19日付]

サリンジャー

著者:デイヴィッド・シールズ, シェーン・サレルノ
出版:KADOKAWA/角川書店
価格:4,536円(税込み)

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