暴力の人類史(上・下) スティーブン・ピンカー著
平和になった理由 科学的に検証
分厚い2冊組でありながら、こんなに夢中になって一気に読んだ本も久しぶりだ。本書は、人類の進化史において、暴力が徐々に減少していったことを立証し、その原因を探るというきわめて大きな構想の書である。

昨今の世界はテロや民族紛争が頻発し、少年による殺人やいじめもあとを絶たず、暴力が減少しているとはとても思えないかもしれない。しかし、手に入る限りの正確な科学的データを集積すれば、実はそうなのだ。
ヒトと共通祖先を持つチンパンジーは非常に暴力的で、隣接する群れを計画的に襲撃して殺していく。近代の国民国家以前の狩猟採集社会や部族社会では、戦争と略奪は日常茶飯事と呼べるほどであり、男の人生で撲殺されること、女の人生で強姦されることは決して稀(まれ)ではなかった。戦争ではなくて平時の集団内部で行われる殺人の頻度も、人口当たりにすれば、かつての最悪時のニューヨークも真っ青になるほどの頻度だったのだ。
そして、公開処刑だの拷問だの異端審問だの、昔の人たちは本当に残酷だった。ローマ帝国での剣闘士とライオンの戦いなど、プロレスではあるまいし、とても現代では許容されまい。ライオンと言えば、人間以外の動物に対する態度も同じである。闘牛や闘鶏は言うに及ばず、中世の西欧では、「クマいじめ」などという催しが大衆娯楽の一つだったのだ。この感覚は現代人には到底理解できないだろう。
子どもと女性に対する暴力も同様である。かつては、子どもへの体罰も、女性の奴隷化とおぼしき状態も、当たり前のこととして許容されてきた。
著者は、まずは、本当に人類史を通じて確実に暴力が減少してきたことを立証する。これは事実だ。次は、その原因である。なぜ、私たちは徐々に平和化したのだろうか? この分析こそが、進化心理学者としてのピンカーの真髄の現れである。進化生物学、脳神経科学などを総動員して論理的に仮説を構築し、丁寧に検証していくところは、推理小説のようで圧巻だ。
私たちの脳は、他者に共感し、他者の視点を取得する能力を進化させた。そして、道徳的な感覚には生物学的な基礎がある。これらすべてを検討した上で、未来に向けてよりよい社会を築いていくために著者が推奨するのは、やはり理性の力なのだ。性善説か性悪説か、本能か文化かではなく、感情と理性、生物学と社会学をこれほど深く結合させた考察は他に類を見ない。
(総合研究大学院大学教授 長谷川 眞理子)
[日本経済新聞朝刊2015年4月5日付]関連キーワード