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エノケンと菊谷栄 山口昌男著

喜劇俳優と座付き作者の精神史

本書は2013年に没した文化人類学者、山口昌男の未完の遺稿である。が、「編集後記」を二人の編集者が書いているのが異例のように、今の形にまとめるまでが大変だったらしい。

(晶文社・2300円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

「菊谷(きくや)栄――エノケンと浅草レヴューの世界」というタイトルで本書の企画が最初に提出されたのは1983年だった。著者は青森の菊谷家を訪ねて資料に当たったり、関係者に取材したりした上で現在の表題で執筆にかかった。

ところが80年代の終わりころから足踏み状態がつづき、2003年には原稿を紛失したと編集者に告げたという。12年の秋にそれが札幌の古書店で発見されたものの著者の病が進み、加筆する間もなく他界した。残されたのは脈絡のない原稿の束だった。が、埋もれたままにしておくのは忍びがたいという編集者の執念が実って、この一冊になった。今、これが希代のコメディアン、エノケンこと榎本健一とその座付き作者、菊谷栄の貴重なドキュメントとして、われわれの共通財産としてある。

自伝を含むエノケンの評伝は少なくない。が、菊谷のそれと並行してまとまった著作は、本書がはじめてだろう。とはいえ、浅草興行街に最初にレヴューを誕生させたと言われる菊谷は日中戦争に出征して、昭和12年(1937年)に34歳で戦死したので、エノケンに関する記述もこの時点で終わる。だからこれ以降のエノケンの活躍は他書に譲るしかない。しかし、本書ならではの「発見」があって、大いに刺激を受ける。たとえばエノケンが喜劇俳優としてブレヒティアンだったという指摘。

宝塚歌劇の作者の一人、白井鐵造の影響を受けて菊谷の作る抒情(じょじょう)性を漂わせたレヴューの中で、観客を劇中に没入させるのみではなく、劇の虚構性を意識させ、図らずもドイツの劇作家ブレヒトの言う「異化効果」をもたらしていたのがアクロバティックなエノケンの演技だった。エノケンは天性のブレヒティアンで、昭和7年にブレヒトの「三文オペラ」を翻案した「乞食(こじき)芝居」の中で演じた牧師の役で大劇場進出の契機を掴(つか)み、エノケンと呼ばれる時代の寵児(ちょうじ)になったのは、いわば必然だったという。

これと類似の水脈をエノケンと同時代の映画女優、マレーネ・デートリッヒに見るのも著者独自の見解である。もし本書が完結していれば、こういう意表をつかれる精神史のアルケオロジーがもっとあったろうにと、この点だけが惜しまれるが、昭和演劇史の欠落部分を補う意味は大きい。

(演劇評論家 大笹 吉雄)

[日本経済新聞朝刊2015年3月15日付]

エノケンと菊谷栄

著者:山口 昌男
出版:晶文社
価格:2,484円(税込み)

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