春秋

2015/1/8付
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作家の宮尾登美子さんが昨年末に88歳で死去していた。「歳月」と題する短いエッセーにこうある。「人間が祖国の敗戦という大きな衝撃を受け、生死の境からようやく這(は)いあがったとき、誰しも自分をたてなおすのに懸命で、人にまで手をさしのべる余裕はなかった」

▼敗戦1年後の9月、満蒙(まんもう)開拓団の一員として渡っていた満州(中国東北部)から引き揚げてきた。20歳というのに骨と皮、頭はシラミだらけ、着衣は麻袋、皮膚にはコケのようにこびりついた垢(あか)。そんな姿だった。エッセーはその44年後、探しあぐねていた満州時代の知人女性の消息が分かったことをつづったものである。

▼小説、あるいは宮尾作品をもとにした芝居、映画、テレビドラマに描かれた女性の名をひとつも記憶しない人は少ないのではないか。出版社の間では「宮尾の井戸は深い」といわれた。本人もたとえ200歳まで生きても書きたいことがある、と語ったそうだから、くめども尽きぬ水脈には自負するものがあったのだろう。

▼井戸の底に、娼妓(しょうぎ)紹介業の家に生まれたことで浴びた冷淡な視線と、満州や引き揚げ後の日本での極限の暮らしがあった。人に明かしたくない話である。しかし、歳月を経て「自分を傷つけずにどうして人の心を打てようか」の境地に至ると、自伝に近い作品を書き連ねた。宮尾登美子の名を思うと「業」の一字が重なる。

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