春秋

2020/6/5付
保存
共有
印刷
その他

これぞ芸の極み、と忘れられない思い出がある。25年ほど前、名古屋であった古今亭志ん朝さんの落語会。演目は十八番の「幾代餅(いくよもち)」だった。搗(つ)き米屋の奉公人、清蔵が花魁(おいらん)、幾代太夫の錦絵を見て一目ぼれし、1年間必死に働いたお金で吉原へ会いに行くという噺(はなし)だ。

▼いちずで真っ正直な清蔵に心動かされた幾代太夫が、「ぬし、あちきを女房にしてくんなますか」と問う。その瞬間、志ん朝さんが幾代太夫に見えた。失礼ながら外見でいえば、志ん朝さんとはまさに正反対。それなのにそこには確かに目をうるませた幾代太夫が、膝を斜めにして座っている――。しばらく動けなかった。

▼新型コロナの影響で、各地の寄席や落語会は休演が続いている。インターネットを通じ落語の魅力に接する機会はあるが、やはり寂しい。動画投稿サイトで高座を生配信していた春風亭一之輔さんは「面白さは百分の一も伝わらないと思う。それでも、落語を忘れないでいてもらうためにやりました」と本紙に語っている。

▼緊急事態も先月には明け、都内ではいよいよ一部の寄席が営業再開の運びとなった。だがコロナ情勢はなお不透明で、東京アラートなる警報も発せられる。行ったり来たりの半自粛生活はまだしばらく続きそうだ。それでもいずれ名人上手の技に直接出会える時が来る。そう思いながら、いまはそろりそろりと歩いている。

保存
共有
印刷
その他

関連キーワード

電子版トップ



[PR]