春秋

春秋
2020/3/26付
保存
共有
印刷
その他

あれは東日本大震災の翌年だったろうか。東京・赤坂のレストランで、日本での永住生活を始めたドナルド・キーンさんを囲むメディア関係者の集いがあった。戦時中、海軍の情報将校としてハワイの日本人捕虜収容所に勤務していた際の心に響くエピソードを聞いた。

▼戦争末期。捕虜のなかに、マリアナ諸島に派遣された同盟通信の従軍記者がいた。「サイパン特派員の見た玉砕の島」という戦記を残した高橋義樹さんだ。彼はベートーベンを愛していた。とりわけ交響曲第3番「英雄」を。キーンさんは、音がよく響く収容所のシャワー室で、英雄のレコード・コンサートを開いたのだ。

▼「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓に殉じた日本兵の末路を、その目に焼き付けた高橋さんである。異郷の収容所で、どんな思いであの豪壮で雄大な第1楽章を聴いたのだろう。戦後、捕虜たちと敵国の将校は長く友情を育んだという。指揮者は誰だったのか。キーンさんに音源をお尋ねしなかったことが悔やまれる。

▼「ベートーベンの音楽は、ほかのどの音楽よりも、悩むものの友達であり、ときに慰め手である」。音楽評論家の吉田秀和さんの言葉だ。東京五輪の1年延期が決まった。この1カ月で世界は変わってしまった。苦悩を突き抜け、歓喜へ至る数々の楽曲を聴いてみようか。きょうは、1827年に没した楽聖の命日である。

電子版の記事が今なら2カ月無料

保存
共有
印刷
その他

関連キーワード

電子版トップ



[PR]