春秋

2018/10/28 1:11
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志賀直哉の小説「焚火(たきび)」には親子の深い絆を思わせる逸話が差し挟まれている。舞台は群馬県のカルデラ湖のほとりだ。星空の下、炎を囲み、めいめいが不思議な体験を語り出した。地元のKさんは前年の冬に家へ帰ろうとして、山で雪に行く手を阻まれた話を始める。

▼夜更け、峠越えに難渋していると、ちょうちんが見えた。知り合いだった。Kさんの母親に起こされ迎えにきたのだと明かす。家に帰宅の予定は知らせていないはずなのに。だが、母親はKさんが呼ぶ声をはっきり聞き、周囲に支度をせかしたという。作家自身、父との確執に悩んでいたころ。種々の思いがよぎったろう。

▼内戦下のシリアで拘束され、3年4カ月ぶりに解放された安田純平さんの母、幸子さんも、息子が呼ぶ声を聞くことがあったろうか。たとえ、聞こえても、やすやすとはたどりつけない地である。祈りをこめ折った鶴は1万羽を超えたという。手製のおにぎりやきんぴらごぼうを口に運ぶ息子に、どれほど安堵したことか。

▼感動的な対面が伝えられる一方、肉親への情につけ込むオレオレ詐欺の報も絶えない。当局によると今年上半期の被害は計96億円。1日5千万円が闇に流れる計算になる。人の心を踏みにじるテロがはびこっていると言えようか。平和を謳歌する街も一枚めくれば、そこは内戦下のような殺伐さ。脱出は簡単ではあるまい。

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