新たな信長像、作家が示す 大胆な切り口で読み解く

戦国武将、織田信長は悲劇的な最期も相まって、これまで多くの歴史小説で取り上げられてきた。最近も作家の大胆な想像力で信長を読み解いた小説やエッセーが相次いでいる。
「最初に織田家臣団という組織構造について書きたいと思った。そこでは信長が組織作りに当たって何を考えたかが大事になってくるので、内面描写が求められた」。組織論と人事論の視点から信長の生涯を描いた長編歴史小説「信長の原理」(KADOKAWA)を8月末に出した垣根涼介はそう振り返る。
合理主義者の姿

若いころから直属軍の馬廻(うままわり)衆を育てることに熱心だった信長は疑問を覚えた。どんなに鍛えても必ず能力を落とす者がいるのはなぜか。アリの行列を見かけ、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らにある実験をするように命じたところ、世の中を動かしている法則を知る。
法則はその後の家臣団の動きにも当てはまった。天下統一を前にして信長はふと気づく。法則が正しいなら、羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀ら、いま活躍する5人の武将のうち、1人は裏切るのではないか――。小説では徹底した合理主義者の信長の姿とそれがもたらす悲劇がつづられる。
「(1582年の本能寺の変で信長を殺害する)光秀に関しては誰かに唆されたともいわれる。たとえそうだとしても光秀の動機を書くことが大切だと考えた」と述べ、謀反を起こすまでの光秀の言動も丹念に追いかけた。
昨年11月に出版された霧島兵庫の「信長を生んだ男」(新潮社)は、弟・信行の視点から信長をとらえた長編歴史小説。信長に2度反逆したといわれる信行だが、本書では信長に自分にはない覇者の資質を見て、兄を天下人にするため、自分が捨て石になろうとする人物として描かれる。

「自己犠牲をテーマにした歴史小説を書きたいと思ったとき、思いついた一人が信行。それほど有名な人物ではないし、史料も多くないので、いかに膨らませるかが大切になると感じた」と霧島は話す。書き進めるうちに「信行にどんどんシンパシーを感じていき、後に距離をとるのが大変だった」と打ち明ける。
信長は若いころを描いていることもあり、これまでのイメージと異なる。「信長は非情という印象が強いが、尾張(現・愛知県)を統一するまでは必ずしもそうではなかった。実際、謀反人も許している。それが統一後は比叡山焼き打ちなど、我々がよく知るイメージに変わる。何かきっかけがあったんじゃないかと考えたのが、ストーリーの核となった」
「信長燃ゆ」「蒼(あお)き信長」などの歴史小説を発表してきた安部龍太郎はエッセー「信長はなぜ葬られたのか」(幻冬舎新書)を7月末に出した。副題に「世界史の中の本能寺の変」とあるように、戦国時代が世界の大航海時代だったことを背景にして、信長の死を読み解いている。
国際問題を絡め

本能寺の変は朝廷と室町幕府の復権を目指す勢力が光秀を動かしたもので、黒幕は太政大臣だった近衛前久というのが本書の説。さらに明国への出兵を促すイエズス会およびスペインとの関係悪化が、信長政権の揺らぎにつながったとする大胆な見方を示す。
「鎖国史観、農本主義史観、儒教史観という江戸時代のフィルターで信長を見るのではなく、国際問題に向き合った為政者という視点が求められるのではないか」と安部は話す。
一方、ベストセラー「応仁の乱」の著者で日本史研究者の呉座勇一は3月刊行の「陰謀の日本中世史」(角川新書)で「織田信長の対人関係構築はお世辞にも上手とは言えない。(略)信長が非常に有能な政治的・軍事的指導者であったことは間違いないが、他人の心理を読み取る能力はさほどあったようには見えない」と指摘し、信長が抱えていた欠点を指摘する。
歴史的事件の「陰謀論」を論破する同書では、本能寺の変における黒幕説も否定される。「織田信長は決して万能の天才ではない。彼にも弱点はあり、隙もあった。光秀が己の才覚で信長を討ったことを殊更に訝(いぶか)る必要はない」と記す。
虚実の皮膜で勝負する作家と文献を重視する研究者では、歴史のとらえ方に違いが出るのはむしろ当然だろう。「歴史という巨大な森をそれぞれのやり方で歩き、収穫の豊かさを競えばいい」と安部は言う。信長像に関しても、お互いに刺激し合うことが深化をもたらすのかもしれない。
(編集委員 中野稔)
[日本経済新聞夕刊2018年9月10日付]
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