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春秋

鋳型に入れたような悪人は世の中にいない――。夏目漱石の「こころ」で先生が若者にこう説く場面がある。ふだんは心優しい普通の人が「いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」。理由は例えばカネ。先生自身は恋で友人を裏切った経験を持つ。

▼ここに戦争を加えてもいいかもしれない。終戦間近の8月8日、東京都下で米軍機が撃ち落とされ2人の搭乗員が脱出した。捕らえた憲兵隊は翌9日、1人を立川市内の小学校に木を組み縛り付ける。老いた女性が「息子の敵(かたき)」と叫んで殴りかかる。米国人は人間ではないと学校で教わった少年が先の割れた竹刀を振るう。

▼希望者が多く、殴るのは1人1回。見物客が校庭にひしめく。最後は近くの寺で1人の将校が首を切り穴に埋めたそうだ。事件の詳細は地元ではタブーとなったが、後に市民グループが聞き取り調査する。「立川空襲の記録」シリーズの一部として本にもなった。市の図書館に収められ、73年前の真実を今は誰でも読める。

▼市井の人々を鬼に変えたのは何か。「国家は大切かもしれないが、朝から晩まで国家国家といって国家に取りつかれたような真似は到底我々に出来る話でない」。大正3年の講演で漱石は語っている。しかし昭和の一時期、日本では国家が国民の心を覆い、人を人として見る目を失わせた。そうした歴史も忘れずにいたい。

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