春秋

2018/6/18 1:17
保存
共有
印刷
その他

今年は井伏鱒二の生誕120年、没後25年にあたる。95歳の生涯に1600編を超す詩、小説、随筆を残した。これに新たな一編が加わった。「早稲田文学」の初夏号に、全集未収録の短編小説「饒舌(じょうぜつ)老人と語る」が載った。驚いたのは本作が中国で発見されたことだ。

▼第2次世界大戦末期。中国・上海で「大陸」という日本語の月刊総合誌が創刊された。当局の許可を得て、在留邦人に政治、経済、文化の情報を伝える、いわゆる「国策雑誌」である。その1944年12月号に、幻の井伏作品が収められていた。北京外国語大学の日本近代文学研究者が、中国国家図書館で発見したという。

▼「必死必中」「一億抜刀米英殲滅(せんめつ)」……。雑誌には、日本企業の勇ましい広告文が躍る。座談会には軍、警察、大使館の幹部らが登場し、「思想戦の有力な戦士になって頂く」などと発言している。時局への協力を旨とする翼賛体制メディアに、井伏はいったいどんな小説を寄稿したのか。一読していただくしかあるまい。

▼はっきりしているのは、権力におもねらず戦時下の空気に距離を置いていることだ。得意の戯画化というオブラートに包んではいるが。眼鏡のふくよかな温顔に宿る、文士の気骨を伝えてくれる。戦後の名作「かきつばた」や「黒い雨」に連なる滋味豊かな作品を発掘してくれた中国の研究者の尽力に、心から感謝したい。

電子版の記事が今なら2カ月無料

保存
共有
印刷
その他

関連キーワード

電子版トップ



[PR]