猛追撃で世界驚かす 競泳・坂井聖人(上)
昨夏のリオデジャネイロ五輪で日本選手団副団長の山下泰裕(全日本柔道連盟副会長)は日本勢の躍進をこうたたえた。「アトランタ五輪(1996年)やシドニー五輪(2000年)のころ『日本選手はプレッシャーに弱い』と言われていたが、今の若い選手は世界の強豪にも屈しない。精神的にたくましく、心の持ち方がポジティブだ」

リオ五輪の競泳男子200メートルバタフライを制した怪物マイケル・フェルプス(米国)と0秒04差で銀メダルをつかんだ21歳の坂井聖人(早大)。競泳ニッポンにさっそうと現れた新星は、山下のいう「今どきのたくましい日本人アスリート像」を地でいく男だ。
決勝前の招集所。リオが初対面だった憧れのフェルプスの横にどかっと腰掛けた。「体のまわりにバリアーがあって、誰も近寄れない雰囲気。でも、僕は基本何も考えていないので『行っちゃえ』と思った」
レジェンドが招集所でどう過ごすか知りたかった。「ヘッドホンで音を漏らしながら音楽を聴き、ずっと下を向いて深呼吸していた。すごい集中力だった」。前人未到の五輪20個目の金メダルをかけてピリピリムードの怪物に気押されなかった度胸は見上げたもの。
レースでも坂井は周りに惑わされない。「マイペースが僕の一番の強みかな」。その資質はリオでも発揮された。ロンドン五輪金メダルのレクロー(南アフリカ)や15年世界選手権覇者のチェー(ハンガリー)がフェルプスを警戒して前半から飛ばす中、坂井は自分のペースを守り抜いた。「勝負は最後の50メートル」と自分に言い聞かせながら。
■今夏の世界選手権では「金を取る」
150メートルを6位でターンすると、一気にエンジンを全開にした。前半のツケで失速した強豪たちをごぼう抜きし、不可侵のオーラを発しながら先頭を泳ぐ怪物にも迫った。スタースイマーに冷や汗をかかせた猛追劇は、精鋭同士のけん制し合いなどどこ吹く風というレース運びがもたらした。
日本競泳史に残るレースを坂井は「もう完全に忘れた」。今、頭にあるのは今夏の世界選手権(ブダペスト)だけ。「メダルではなく金メダルを取って、もう一度日本中をわかせたい」
「坂井は瞬間を生きている人間」とコーチの奥野景介(早大水泳部総監督)は評する。いい意味で何事も引きずらず、「今、目の前にあるものしか見ていない」と奥野。この切り替えの早さも大舞台ほど輝く秘訣なのかもしれない。
福岡県柳川市出身。高校時代まで指導した柳川スイミングクラブコーチの徳丸裕二は「坂井の泳ぎはフェルプスに似ている」という。「2人とも膝関節や足首が柔らかく、イルカのようなしなやかなキックを打つ。ばしゃばしゃと苦しそうに泳ぐのではなく、氷の上を滑るかのように楽々と進んでいく」。怪物がプールを去った後の男子200メートルバタフライで、ひょうひょうと世界をリードしていきそうだ。
(敬称略)
〔日本経済新聞夕刊1月23日掲載〕
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