なにわの道場の将棋愛 新世界最後「三桂クラブ」運営
三桂クラブ席主、伊達利雄

2017/1/13 5:40
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明治から昭和初期に活躍した将棋棋士、阪田三吉。南禅寺の決戦など多くの名勝負を繰り広げた鬼才が全盛期を過ごしたのが、大阪市の繁華街・新世界だった。中心にある通天閣の真下には、阪田をたたえる王将の駒をかたどった記念碑があり、この地に格別な思いを持つ将棋ファンは多い。

その一角の商店街「ジャンジャン横丁」で、私は将棋クラブ「三桂(さんけい)クラブ」を営んでいる。1970年代には複数の将棋クラブが立ち並んでいたが、愛好者の減少などで閉店が続き、いまでは新世界で唯一となった。

真剣勝負の熱気が満ちている

真剣勝負の熱気が満ちている

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■富や地位は関係ない

店ができたのは戦後すぐの頃。祖父が開業し、父が後を継いだ。50年ほど前、まだ私が幼い頃は店舗の2階を家族の住居として使っていて当時の記憶がおぼろげにある。

将棋盤と碁盤が合わせて60面ほど並ぶ約170平方メートルの1階が満席になると、2階を開放していた。白熱の対局は閉店時間を過ぎても、しばしば続く。勝負事なので途中終了はあり得なかった。駒を指す時の「パチン」という響き、対局中のざわめき。生活のそばで、将棋の音が絶えず鳴っていた。

今も変わらないが、店には日雇い労働者から会社の社長まで様々な客が訪れた。立場は違えど、将棋盤を置いて向かい合う勝負の場に富や地位の有無は関係ない。誰もが対等だ。裸の人間となって気迫を込めて駒を指す人たちがずらっと並ぶ店内は、いつも独特の迫力に包まれていた。

私は大学を卒業し、数年間の会社勤めをした後、三桂クラブを継いだ。父が病気がちで店を空けることが多かったので「そのうち戻らんといかんな」と常々思っていた。

そうして3代目の「席主」となったわけだが、まあ大変だった。対戦相手を席主が決めるのが店の伝統のスタイルで、これが難しかった。

仕事を続けていると、客を見れば大体の棋力が測れるようになる。だが同じ棋力の人で手合わせしてもらえばいい、という単純なものではない。強い人とやりたい客もいれば、勝てる対局をしたい客もいる。顔なじみと指したい人がいれば、知らない人と勝負したいケースもある。さらには性格の相性も重要で、相手を決めるにあたって考慮する要素は実に多い。

これが長く続けるうちに自然とできるようになった。好みや気分は日によっても変わるが、常連の顔を見ただけで「今日はどんな将棋を指したいか」が分かってくる。初めての来店者についても、おおよその見当が付く。何年かかって身につけたかは忘れたが、あるときから「席主に向いてるわ」とお客に褒められるようになった。

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■300円で醍醐味

接客も含め運営に心を配るのは、お客に「今日も楽しく勝負ができた。来てよかった」と喜んでもらうためだ。満足した人は次も来るし、別のお客を連れてきてくれもする。その輪を毎日広げて、店はいつも満員御礼という状態にしなければ、安い席料で営業するクラブの経営は成り立たない。

新世界で共に最後まで営業を続けていた老舗の「王将」は2015年秋に店をたたんだ。その後、同店の客のほとんどがうちに移らなかった。対局できればどこでもいいのではなく、その店が好きで将棋をしている人も多いのだと実感した。

おかげさまで三桂クラブには連日大勢のお客が足を運ぶ。1時間300円、1日いて1000円の席料を払い、真剣勝負の醍醐味を求めて四国や関東の遠方から訪れる人も多く、昼すぎには満席になる。私は朝9時から夜10時まで店で立ち続けているが、喜びや反省が日々あって充実している。仕事がしんどいと感じたことはない。お客さんが来てくれる限りは店を開けていたいと思う。

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■胸打った常連さんの姿

数年前、大阪の難波を歩いているとき、常連さんのお年寄りを見かけた。いつもきっかり1時間だけ入店する人で、その時は金属製品などの重量物をリヤカーにたんまり乗せ、冬なのに汗だくになって引っ張っていた。

金属を売って生計を立てているようだが、稼ぎは細々としたものだろう。その人が店で払う1時間300円の席料は、かけがえのない価値を持つものに違いない。そう考えると、私の目は涙で潤んだ。自分の仕事の意味を、改めて深く考える出来事になった。

店内の壁には常連の名を記した札が段位順に並んでいる。亡くなった人でも、遺族に「ずっと置いといてくれますか」と頼まれるので、そのままにしている。いつまでも愛されるクラブでいられるように踏ん張りたい。

(だて・としお=三桂クラブ席主)

[日本経済新聞朝刊2017年1月11日付]

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