経済特区 深圳進出「0001号」 勢いづき上海にも一貫工場
タイ・CPグループ会長 タニン・チャラワノン氏(18)

2016/7/18 3:30
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1979年、まだ英国が統治していた香港の隣に深圳という小さな漁村があった。人口は数万人。今では人口1千万人の大都市深圳だが、そのころはホテルすらなかった。文化大革命で失脚していた鄧小平が指導者に復活すると、この漁村を経済特区と名付け、外資導入のモデル地区とした。

多くの外資企業は深圳特区を疑いの目で眺めていたが、私は鄧小平なら信頼できると考えた。鄧小平は文革前から民営経済を容認する柔軟な考えを持っていた。中国を再訪した私は中国の民衆が豊かさを求めていることを実感しており、文革路線に戻ることはないと確信していた。

中国政府は80年、広東省の深圳、珠海、スワトー(汕頭)、福建省のアモイ(厦門)の4都市を経済特区に正式に指定した。父は長くスワトーで農場を経営していたが、そのとき知り合った幹部らも文革終了を受けて続々と復活していた。合弁事業の商談は父の友人である広東省政府高官の広州市の自宅で実施した。

CP(チャロン・ポカパン)グループと米コンチネンタルグレインとの合弁「正大康地」が成立した。父がバンコクで創業した野菜の種店「正大荘」にちなみ、これ以降CPグループは中国では正大集団という名称を用いている。

まもなく深圳への投資認可が下りたが、そこには「0001号」と記載されていた。つまり深圳に進出した第1号企業というわけだ。81年、飼料工場は稼働した。飼料工場の近くに養鶏場、養豚場を併設し、タイと同じような一貫生産を始めた。

スワトーでも正大集団は第1号となったが、ここでは絨毯(じゅうたん)の製造工場を設けた。中国のホテルは絨毯が不足していたからだ。広東省では広州、珠海へと事業を広げた。

最大の商業都市、上海では当初、商談が前に進まなかった。「タイでは農家1人で1万羽の鶏を育てられる」。当時の汪道涵市長らに説明したが、理解は不十分だった。百聞は一見にしかずということで上海の副市長らをタイに招いた。バンコクの空港(ドンムアン)に到着すると、上海の一行は驚いた。上海の空港より何倍も大きかったからだ。道路にはたくさんの自動車が走っていた。中国が文革で停滞している間にタイは経済成長を遂げていた。

一行は「タイは遅れたところと思っていたが、間違っていた」と驚きを隠さなかった。農家1人が1万羽の鶏を育てている現場を見せると、その夜から連日会議となった。上海への導入が決まり、養鶏、養豚、食肉加工が始まった。やがて正大集団は四川省、東北三省など農業地帯に進出し、中国の飼料生産ではシェアトップクラスになった。

正大集団は飼料から食肉までの一貫生産方式を中国に持ち込んだが、これが地元企業を刺激することになった。中国企業は飼料配合などで先端技術を持つ我々のまねをした。中国の飼料、養鶏、養豚の産業は短期間に生産量を拡大し、効率を改善したが、これは高い技術を持ち込んだ我々の功績だろう。

中国の人々は改革開放前には配給切符がなければ卵や豚肉を食べることができなかった。それが今ではいつでもどこでも手軽に食べられる。人民公社や国有企業ができなかったことを民間企業が実現した。

(CPグループ会長)

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