天国から地獄 23歳で結婚、25歳で失業 - 日本経済新聞
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天国から地獄 23歳で結婚、25歳で失業

中ソ対立のあおり、組合破綻

タイ・CPグループ会長 タニン・チャラワノン氏(12)

20歳代の初めは順風満帆だった。タイ政府傘下の協同組合で鶏卵の輸出業務を一手に担ったからだ。日米欧では鶏など家禽(かきん)類の羽毛を抜き取る脱毛機械もすでに使われていた。タイ政府はデンマーク製の機械を持っていたが、鶏の大きさがそろわないと使えなかった。

日本には別の方式の脱毛機があった。1960年代初め、日本の鶏肉処理施設を視察することになった。初めての訪日だ。弱冠21歳の私がタイ政府から派遣されて来たのだから、受け入れ側もさぞかしびっくりしたろう。

失礼ながら、当時の日本の処理施設も先進的には見えなかった。ともかくも日本で16台の脱毛機を購入し、タイに持ち帰った。協同組合の理事長のチャムナン・ユバブーン博士からは「機械だけでは自動処理はできない。鶏の大きさが均等でなければならない」と助言を受けた。

タイでは放し飼いにされた地鶏が一般的で、大きさも年齢もまちまちだった。どうすれば均等な鶏を育てられるのか。協同組合時代は解決できなかった。この難題を解くことでCP(チャロン・ポカパン)グループは世界企業へと飛躍するのだが、それは先の話だ。

私は23歳のときに結婚をした。さあ、これからというときに災厄がやってきた。

60年代、中国と旧ソ連という2つの共産党国家の対立がしだいに激しさを増していった。中国はソ連の社会主義を資本主義と妥協する修正主義と批判し、怒ったソ連が中国への援助を停止した。中国はソ連からの借款を早期に返済することになった。

当時の中国にお金はなく、現物輸出で債務を返済する方式をとった。といって輸出できる工業製品もまだなく、中国の農産物の大量輸出が始まった。当初、中国はソ連に豚を輸出し、香港は豚肉不足に陥るほどだった。その後、一転して香港への農産物の輸出攻勢が始まり、豚肉や鶏卵の価格が下がった。タイから香港に鶏卵を輸出しても採算が取れなくなった。

協同組合の資金は底をついた。もともと組合は養鶏業者の扶助組織だ。たいしたお金は持っていない。私は困り果てた。経営改善しようにも元手になる資金がなかった。幸い、クリーンな経営をしていたので組合員から責められることはなかった。

25歳で私は失業した。タイ政府は協同組合を解散し、誰でも自由に輸出できる体制に戻したからだ。私は実家に戻った。そのころ会社は長兄のジャランが会長を務め、次兄のモントリが社長として飼料事業を切り盛りしていた。

その次兄が社長職を私に譲ると言い出した。次兄はアイデア豊富な人で、飼料のほかにもいくつか事業を手掛けていた。次兄はトウモロコシや緑豆、大豆などの貿易や穀物を入れる麻袋の工場も経営しており、貿易や工場経営に専心したいという。

私は次兄に代わって飼料事業を統括することになった。飼料の取扱高ではすでにCPはタイで最大となっていた。200人規模のそれなりの大所帯だったが、協同組合時代に組織を運営する経験を積んでおり、それが役立った。長兄は細かいことに口出しをせず、弟のすることに任せた。

(CPグループ会長)

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