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香港時代 豪留学イヤで取りやめ

「働け」父の一言でタイへ

タイ・CPグループ会長 タニン・チャラワノン氏(9)

私は17歳まで香港の学校にいたが、勉強の合間は映画を見て過ごした。

子供のころからの夢は映画監督になることだった。香港時代の友人のなかに兄が映画スターという学生がいた。18、19歳の青年俳優だが、彼のつてで撮影所に出入りができた。どんな風に撮影するのかをじっくりと観察した。映画監督になるつもりだった。

1950年代の香港には今のようなきらびやかな風景もぜいたくもなかった。自動車もあまり見かけなかった。中国から逃れてきた人たちが大勢いた。貧しい人々は山腹に鉄の板で囲っただけの住居をこしらえて暮らしていた。もとから香港に住んでいたお金持ちは香港から離れ、別の場所に移住していった。香港が豊かになるのはもう少し後だ。

私は今ではもう廃校になった学校に通い、中国語(広東語)と英語で授業を受けていた。父は香港で英語の基礎をつけたうえで、オーストラリアの大学に進学してほしいと希望していた。農業の発達したオーストラリアで農学を専攻し、家業の野菜の種の販売に役立ててほしいと考えたようだ。

私はといえば、ひんぱんに変わる生活に少しばかり飽いていた。タイの小学校ではタイ語を勉強し、中国のスワトー(汕頭)では中国語(潮州語)になった。さらに広州に移ってからは広東語となり、香港では広東語と英語になった。オーストラリアに行けば次は英語と格闘しなければならない。

スワトーの小学校時代に漢字を一から勉強した苦労をオーストラリアでもきっと味わうことになる。あの苦労を繰り返すのはもうごめんだった。結局、私は行かないと決めた。妹と2人で留学するはずになっていたのだが、妹だけがオーストラリアに向かった。

私が香港にいた50年代後半、中国では経済政策の変更が顕著になった。共産党政府は建国初期こそ企業経営者や帰国華僑を歓迎したが、しだいに私有制経済、民間企業を否定するようになった。私有地を没収し、農業の集団化を推し進め始めた。スワトーに会社と農場を持っていた父は、愛国華僑から一転して資本家、地主として糾弾される立場に変わった。

父は運が良かった。本来、中国から出国できないはずだったのだが、胃病を患って香港で手術することになった。香港で療養中に中国の政策は公有制へと急進化し、父は危うく難を逃れた。当時、香港は英国が統治しており、中国の主権が及ばない安全地帯だった。中国にとどまっていたならば、どうなっていたかはわからない。

その後、スワトーにあった会社も農地も没収され、父は中国の財産のすべてを失った。私も拘束される心配があったので、香港からスワトーや広州に赴くことはできなくなった。私が中国を再訪するのは70年代も終わりになり、鄧小平が対外開放政策にカジを切ってからだ。

オーストラリアへの留学をあきらめた私に、父は「勉強をしないのなら働きなさい」と促した。私は香港を離れ、バンコクに戻ることになった。私が中国広東省と香港にいる間に、父がバンコクで興した正大(チアタイ)荘はCP(チャロン・ポカパン)グループとして知られる中堅企業に成長していた。

(CPグループ会長)

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