父のいる中国へ 笑われまいと漢字独習 成績上がり、趣味の闘鶏再開
タイ・CPグループ会長 タニン・チャラワノン氏(7)

2016/7/7 3:30
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生まれて初めて大海を見た。タイのバンコクから大きな客船に乗って中国広東省のスワトー(汕頭)に向かった。船に乗るのも初めてだった。船は波に揺れた。船酔いに苦しむ人が大勢いたが、私は酔わなかった。1週間をかけてようやく父のいるスワトーに到着した。

スワトーの小学校へ。中国式に赤いスカーフを巻いた

スワトーの小学校へ。中国式に赤いスカーフを巻いた

父の生まれた澄海・蓬中村は、現在の行政区画ではスワトー市に属する。父は蓬中村とスワトーの旧市街にそれぞれ家を持っていた。港町のスワトーは西洋建築の影響を受けた騎楼と呼ばれるたくさんの建物が軒を連ねていた。2階部分が突き出し、その下がアーケードのような歩道になっている。

私は騎楼の3階に住んだ。この建物は今では空き家になっているが、昔のままの姿で残っている。父は家にはおらず、ほとんど農場で日々を過ごしていた。スワトーでは言葉には不自由をしなかった。バンコクの自分のうちで母親と話していた潮州語がそのまま通じた。

ただし漢字がわからないのには困った。タイで最初に通った小学校では中国語を教えていたが、その後の寄宿制の小学校ではタイ語のみの授業になったからだ。1952年に地元の小学校の4年生のクラスに編入した。私は漢字の勉強を小学校低学年のレベルからやり直さねばならなかった。

そのころスワトーの小学校の生徒は、学年が一緒でも年齢はばらばらだった。新中国になって初めて学校に通う子がいたうえに、年齢の違う帰国華僑の子らが続々と編入していたからだ。私も年かさの方だったが、10代後半くらいの年齢の小学生もいた。

私は同級生に笑われまいと必死だった。辞書を買い求め、小学校1年生、2年生の教科書を借りて漢字を独習した。朝6時に起き、ベランダで漢字を一つ一つ覚えていった。毎日のように国語の試験があり、試験が終わると担任の先生に間違ったところを指摘してもらった。

中国は地域ごとにお国言葉があり、発音や文法が異なる。政権の座に就いた共産党は標準語(北京語)を普及させようと力を入れていた。週に1回、標準語の授業もあったが、うまくしゃべれるまでにはならなかった。標準語は後に台湾で仕事を通じて体得することになる。

5年生になると、成績は2番、3番まで上がった。漢字がわかるようになると、だいぶ勉強が楽になった。算数は得意でこれは勉強しなくとも点数がとれた。勉強が一段落すると、タイの時代から好きだった闘鶏用のオンドリを飼う趣味を再開し、闘鶏好きの近所の人に勝負を挑んだ。

父の農場からメンドリももらってきて育てた。同級生らと一緒にえさをあげ、生まれた卵はみんなで分けた。ハトもベランダで飼った。多くは大空に放しても家に戻ってきたが、帰ってこないハトもいた。飼育が上手な子に頼んで育て方を教えてもらったこともある。後年、私は家禽(かきん)類の飼育で身を立てるが、子供時代の趣味がどこかで関連しているのかもしれない。

そのころまだ珍しかったカメラも好きだった。父のカメラを持ち出し、セルフタイマーで同級生や先生と一緒に自分も写した。現像から焼き付けまで自分で手掛けてみんなに配った。機械や技術に凝る性格も後の事業に役立ったのかもしれない。

(CPグループ会長)

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