「誰でも発信時代」の功罪 報道への視線厳しく
(徳力基彦)
熊本で発生した一連の地震から1カ月が経過しようとしている。

5年前の東日本大震災においては、偶発的にツイッターを中心としたソーシャルメディアの災害時の利用手法が注目され、実験的な試みがなされていた印象が強い。
一方で、今回の熊本地震では、5年前に比べるとツイッターだけでなくLINEやフェイスブックなども、より多くの人々に普及している。ある程度、災害時におけるソーシャルメディア活用のメリットとデメリットが明確になってきた。
崩れた住宅の下敷きになった家族がLINEで助けを求め命を救われた逸話や、ツイッターやフェイスブックをうまく活用した地域が多数の支援を直接得られることができたなどの話にも事欠かない。
学生たちが立ち上げた「Youth Action for Kumamoto」は、フェイスブックなどで集めた情報を、グーグルの地図サービスに集約。給水所や避難所、炊き出しの場所を分かりやすく示して貴重な情報源となった。
一方で、ソーシャルメディア上でのデマの拡散や、必要以上の物資が集まっても発言が広がり続けることなど、デメリットも再確認された。
熊本地震とソーシャルメディアの関連として、特に目立った傾向を一つあげるとしたら、マスコミの報道姿勢に対する反発があげられるだろう。
テレビ局のスタッフがガソリンスタンドの給油待ちの車列に横入りをしておわびをすることになったり、生中継のさなかに被災者とトラブルになったりと、様々な事例が話題になった。
こうした騒動は、過去の災害報道においても発生していただろう。今回の熊本地震でこれほど注目されているのには、報道という行為自体がいわゆる大手マスコミだけのものではなく、誰でもできる行為になったことが大きく影響している。
例えばガソリンスタンドの横入り問題は、その場にいた地元のツイッターユーザーによる写真付き投稿が発端となった。本人の想像を超えた反響があったためか、既にこの投稿は削除されているが、ピーク時には4万人を超える人が拡散に協力していたようだ。
同様の現地の報道陣に対する問題提起は、ツイッターを中心に様々な形でなされており、それを一部のウェブメディアが積極的に取り上げることで、さらなる話題を呼ぶ構造になっている。
インターネット時代以前は、災害における現地の情報はマスコミによる取材を通じたものにほぼ限られていた。そういう意味ではマスコミの求められる役割が非常に大きかったのは間違いない。自負を持って多少の無理を押してでも取材しようとする傾向が、現場の記者に出てしまっている面もあるのだろう。

ただ、今はスマートフォンやソーシャルメディアの普及により「報道」をしようとしている記者やカメラマンの後ろに多数の一般人のカメラがある時代だ。
今までなら大手メディアということで許されていたかもしれない特別扱いも、被災者やボランティアからすると、許せない行為として「報道」されてしまう結果になっているわけだ。
この報道する側とされる側の相対化現象は当然、地震のような災害報道だけに留まらない。企業が行う宣伝イベントやCM撮影などの現場でも同じことが起こりうる。
もはや情報発信は特殊な行為ではなく、全ての人々に可能な行為だ。撮影をしている自分の背中を誰かに撮影されていても恥ずかしくないかどうか、今一度確認することをお勧めしたい。
〔日経MJ2016年5月13日付〕