2019年6月19日(水)

ひみつの王国 尾崎真理子著 理解・共感響く石井桃子の評伝

2014/8/26付
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「あのころの太宰は、あなたに相当あこがれてゐましたね。実際、さうでした」

(新潮社・2700円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

(新潮社・2700円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

桃子さんは、びつくりした風で、見る見る顔を赤らめて、

「あら初耳だわ」

と独りごとのやうに云(い)つた。

「さうですか、御存じでなかつたのですか。どうも、それは失礼」

「いいえ、ちつとも。でも、あたしだつたら、太宰さんを死なせなかつたでせうよ」

太宰が死んだ翌年の井伏鱒二の随筆を引用し、著者は「石井桃子の美点にひかれていた太宰の、まっとうな感覚を書いておきたい気持ちが働いている気がするし、井伏自身の、石井への深い信頼と慕わしさにあふれている」と書いている。

石井桃子は、『赤毛のアン』の翻訳者として有名な村岡花子より14歳若い、1907年生まれ。日本女子大英文学部を卒業後、児童書の編集者として「岩波少年文庫」を立ち上げ、『熊のプーさん』などを翻訳し、『ノンちゃん雲に乗る』で文部大臣賞を、『幻の朱(あか)い実』で読売文学賞を受賞している。

著者は本人やほかの多くの人々へのインタビューと、膨大な資料をもとに、567ページという大部の評伝を書き上げた。

「石井桃子の前には、次々と歴史上の重要人物が登場する。『この人』と狙いを定め、有無を言わせぬ迫力で、それぞれが石井に使命を手渡しに現れている。犬養毅邸に図書整理係として送り込んだ菊池寛、『日本少国民文庫』の編集に参加させた山本有三、そして戦後、岩波書店へ招いた吉野源三郎(中略)石井はいつも、険しい方の道ばかりを選んでいる」

しかし、そんな石井のほうは当時のモダンガールとしてはじつに地味で、本人も「自分一人で生きていこうとしていたのはたしかだったけど、でも、『女だから』って男の敵みたいに肩ひじ張って生きていくっていうんじゃなくて、女は女で、自然に女であるという、その感覚」と語っている。

本書では、結婚することもなく、大きなスキャンダルに巻き込まれることも巻き込むこともなく、こつこつと自分の思う児童文学を作り上げていった感性豊かな女性の一生が丹念に綴(つづ)られていく。ときどきはっとするような鋭い時代への目配りもある一方、終戦直前、「ウソでかためた世界がいやになり、友人といつしよに百姓にならうと思つて」宮城県の山のなかに開墾に行くエピソードも難儀に続く難儀で、凄絶なのだが、どことなくほほえましく描かれている。

石井桃子という存在と、著者の石井作品への理解・共感とが美しく響き合った評伝である。

(翻訳家 金原 瑞人)

[日本経済新聞朝刊2014年8月24日付]

ひみつの王国: 評伝 石井桃子

著者:尾崎 真理子
出版:新潮社
価格:2,916円(税込み)

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