春秋

2014/7/25付
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「小生今迄(いままで)にて尤(もっと)も嬉(うれ)しきもの、初めて東京へ出発と定まりし時、初めて従軍と定まりし時の二度に候」。明治28年2月、正岡子規は同郷の友人だった五百木(いおき)良三にこんな手紙を出している。新聞日本の特派員として日清戦争への従軍が決定、大いに発奮したのである。

▼子規を突き動かしたのは、前線をこの目で見たいという好奇心だけではなかったようだ。前年からの戦争で日本は破竹の進撃を続け、世の中には対外硬(たいがいこう)と呼ばれるナショナリズムが満ちていた。その急先鋒(せんぽう)の思想家が五百木で、子規はずいぶん影響を受けたという。写生の俳人らしからぬ、高ぶった言葉を多く残している。

▼そんな戦争の勃発から、きょうで120年になる。朝鮮の支配権をめぐり対立していた日清両国の艦隊が衝突したのだ。維新からわずか四半世紀。大国を相手に近代戦で勝利した体験は以後の日本に大きな影響を与えた。戦いを辞さぬ強い姿勢こそが国家の独立を保つという意識が、人々の心をとらえていった近代である。

▼日清戦争開戦は干支(えと)の甲午の年だった。それが2回り、21世紀の甲午の日本と周辺国はいまもナショナリズムの制御が問われている。子規を感化した五百木は、やがて日露戦争後にも対外硬を唱えて日比谷焼き打ち事件のきっかけをつくった。勇ましい言説には仇(あだ)がある。それを知るためにも歴史を学ぶ必要があるだろう。

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