ハンナ・アーレント 矢野久美子著 暴虐の根拠問う思想への手引き

2014/5/13付
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20世紀の政治や社会を顧みるときだけでなく、いま私たちが生きる現実を考えるうえでも、ハンナ・アーレントという思想家は、ますますその重要性を増している。彼女が対決した諸問題は、いっそう深刻にこの現実を支配しているからだ。その諸問題とは、彼女が「全体主義」と呼んだ政治・社会体制のなかで私たちを包む無関心、差別と排外主義、歴史的事実の歪曲(わいきょく)、そしてそれらを演出し正当化する巨大な政治的暴力と、これを座視し追認して恥じない私たち自身の深い頽廃(たいはい)である。

(中公新書・820円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

(中公新書・820円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

本書は、そのアーレントの生涯と思想を、彼女が生きた時代との関連のなかで、主要な著作の紹介と評価に即して、簡潔かつ的確に叙述している。アーレントについては、日本でもすでに少なからぬ研究書・概説書や評伝が刊行されており、なかでも、晩年の彼女と親交のあったエリザベス・ヤング=ブルーエルによる詳細な伝記と、精神分析家・哲学者のジュリア・クリステヴァによる思想的評伝は、アーレントの全体像を知るうえでの基本文献である。本書も、ヤング=ブルーエルの大著に多くを負っていると思われるが、しかし決してそれの要約や簡略版に終わってはいない。

ドイツのユダヤ人だったアーレントは、ナチスが政権を掌握したのち、フランス経由でアメリカに亡命した。そこで69年の生涯を終えるまで、ユダヤ人や「生きる価値のない存在」たちに対する暴虐の社会的根拠を問い続けることが、彼女の終生の課題となった。ユダヤ人の真の解放はシオニズムとイスラエル国家樹立によっては実現できないと考え、「隣人であるアラブ諸民族の重視、小国との連帯」を提唱した。大量虐殺の実行責任者アイヒマンが逮捕されたとき、イスラエルでの裁判を傍聴した彼女は、アイヒマンを「怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男」として描き、問題はナチズムだけのものではなく、無思考な体制順応の生き方をする誰もがアイヒマンになりうると論じて、ナチスを免罪するものだと非難され、ユダヤ人の友人の多くを失った。

著者は、こうしたアーレントの姿勢と思想に深く共感しながら、しかし熱っぽくその思いを語るのではない。アーレントの思想自身に語らせ、その思想への手引きの役割を着実に果たしている。読者は、紹介される諸著作の概要を知り、自分でそれを読む意欲を触発される。新書という限られた枠のなかで、アーレントへの最適の道標が示されたというべきだろう。

(ドイツ文学者 池田 浩士)

[日本経済新聞朝刊2014年5月11日付]

ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 (中公新書)

著者:矢野 久美子
出版:中央公論新社
価格:886円(税込み)

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