写字室の旅 ポール・オースター著 不思議な部屋の老人が進む迷路

2014/3/18付
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テーブルには「テーブル」と書かれたテープが、ランプには「ランプ」と書かれたテープが貼ってあって、老人はそれらのテープを見て、「テーブル」とか「ランプ」とか言うが、はたして、物を認識してそう言っているのか、字を読んでいるだけなのか。

「もしかしたらもう字は読めなくなっているが、物をありのままに認識する力はまだ残っていて、その物を名前で呼ぶことができるのかもしれないし、あるいは逆に、物を認識する力は失われているが、字はまだ読めるのかもしれない。」

老人は、小さな個室のなかにいるが、どんな建物の中にいるのか、思い出せない。「住宅の中? 病院? 監獄?」

本書はこういったシーンからいきなり始まるのだが、物の名前を書いたテープが部屋のあちこちにべたべた貼ってあるという記述からいきなり思い出したのは、数年前に公開されたメキシコ映画『グッド・ハーブ』の印象的なシーンだ。まったくおなじように、物の名前を書いたテープが部屋中に貼ってあった。娘が、認知症になりはじめた母親のために、貼ったのである。

そんなことを思い出してしまったので、認知症の老人の話として読んだ。認知症の患者が閉鎖病棟のような施設に収容されるのは珍しいことではないから、そう考えると、老人のいる、老人にとっては不思議な部屋のこともすっと理解できる。つぎつぎと訪ねてくる人物たちを老人が認識できないことも、すとんと納得がいった。

著者のオースターは日本でも人気のある作家だから、愛読者なら、老人を訪ねてくる人物たちがオースターの別な作品の登場人物たちであるのにきっと気がつくはずで、それがわかると、それはそれでまた、作者の巧妙な仕掛けの解読を楽しめるかもしれない。

しかし、老人の「このたわごと、いつ終わるんだ?」という叫びといい、エッシャー的な迷路へと進んでいく展開といい、認知症の老人の話として読んだほうが、はるかに鬼気迫るものがある。

(翻訳家 青山南)

[日本経済新聞朝刊2014年3月16日付]

写字室の旅

著者:ポール オースター
出版:新潮社
価格:1,890円(税込み)

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