坪井正五郎 川村伸秀著
人類学的思考の冒険誘う評伝
坪井正五郎、帝国大学理科大学(東京大学理学部)の人類学教室初代教授、1863年(文久3年)に生まれ、1913年(大正2年)にロシアで客死した。享年50。残念ながら、現在ではあまりよく知られていない。ただし山口昌男の読者なら、坪井の名に記憶があろう。山口は『「敗者」の精神史』で、「敗者」たちの"知のネットワーク"のなかのひとりとして、すぐれてビビッドに描いている。山口は今年惜しくも鬼籍に入ったが、坪井の初の評伝である本書の刊行を喜んだに違いない。

坪井は何よりもコロボックル論争で知られている。アイヌの人たちの伝説に出てくるコロボックルが実在し、アイヌや日本人の先住民族だとする、坪井の説は退けられた。最近、瀬川拓郎は『アイヌの沈黙交易』で、千島アイヌの交流を避ける沈黙交易の習俗がこの伝説を生み出したとしている。
そして、人類館事件がある。03年、大阪で開催された第5回内国勧業博覧会の際、民間パビリオンとして「学術人類館」が設けられた。著者の見方は異なるが、企画したのが坪井であった。中国や朝鮮、沖縄からは非難・抗議を受けて除外されたが、アイヌや台湾原住民などの「各人種」は生身の人体展示が行われた。日露戦争中には「人類学的博物館」の構想を抱き、坪井の死の前年の12年、拓殖博覧会でも「帝国版図内の諸人種を一ケ所に集める」とする企図のもと人種展示が繰り返された。それは未開の人種に教育を施して文明化するという、人種差別による植民地支配を正当化しようとする帝国主義の政治的戦略に組することにほかならなかった。
他方、坪井は三越のブレーンとなり、流行会や児童用品研究会で服飾や海外の土産について講演して、三越を文化装置として人類学的知を発信した。そればかりでなく、遊び心をもって「燕がへし」と名づけたブーメランなど数多くの玩具を考案し、三越で商品として売り出されたほどだ。
膨大な文献を渉猟して成った本書は、生誕150年、没後100年の坪井を再生させ、山口亡き後の人類学的思考の冒険を誘っていよう。
(大阪大学教授 川村邦光)
[日本経済新聞朝刊2013年11月24日付]関連キーワード