「イスラム」仕様広がる 16億人の成長市場に的
東南ア訪日客増に対応
明日香は主婦が利用した「りんくうプレミアム・アウトレット」(大阪府泉佐野市)にやってきた。三菱地所・サイモン(東京都千代田区)の施設の一つで、関西国際空港(関空)に近い。礼拝に使うのは約8平方メートルずつの2部屋で、10月に開いた。天井の矢印が聖地メッカ(サウジアラビア)を指している。

支配人の辻野弘之さん(45)によると、数年前から礼拝の部屋を求める東南アジアからの客が増え、対応することにした。施設全体の客のうち外国人はまだ数%だが、購入単価は日本人よりも高い。
明日香はバスで関空に向かった。関空の運営会社は8月、「イスラム教徒が安心できる空港を目指す」と宣言。豚肉やアルコールを使わないなど同教の戒律に則した食べ物などを「ハラル」と呼ぶが、すでに空港内のレストラン2店がマレーシアの機関からハラル認証を得た。礼拝の部屋をいまの1つから3つに増やす。インドネシアからの教徒の男性(35)は「食べ物と礼拝の心配がなければ日本に来やすくなります」と語った。
「どうして配慮するのかしら」。帰京した明日香は日本政府観光局に急いだ。海外マーケティング部長の小堀守さん(58)が教えた。「東南アジアで生活に余裕のある中間層が育ち、訪日客が増えました。イスラム教徒が大半のインドネシア、マレーシアの人口は計3億人弱と多く、一段の増加が期待できるのです」
政府は7月、マレーシア、タイからの訪日ビザを原則免除した。さらに日本のハラル料理レストラン、礼拝所を紹介する英文のガイドブックを作り、3月から東南アジアで配布。観光局統計で2013年1~8月の訪日客数を出身国別にみると、12年9月に日本政府が尖閣諸島を国有化した影響で中国が84万人(前年同期比26%減)に落ち込む一方、インドネシアは9万人(40%増)、マレーシアは9万2千人(20%増)に伸びた。
世界に16億人 市場成長
明日香はメモした。「尖閣諸島を巡り中国との政治問題が浮上するリスクに直面した政府と業界が東南アジア客の誘致にシフトしている」。10年以降、東南アジアと日本を結ぶ格安航空会社(LCC)路線が拡張したこともマレーシアやインドネシアからの訪日客の増加につながった。

日本に長く住むイスラム教徒も増えているようだ。丸正フーズ(東京都新宿区)は10月、都内のスーパー2店でハラル食品コーナーを設けた。
中東や東南アジアからの留学生も目立ってきた。東京大学、京都大学の生活協同組合はこれに対応、学生食堂でハラル料理を提供し始めた。
明日香は東京都武蔵野市の横河電機にたどり着いた。13年4月、一部屋にカーペットを敷き、礼拝専用にしたと聞いたからだ。主に使うのは中東のバーレーンのグループ会社からの出向者と、本社採用のヨルダン人など。グローバル人事部長の新井千之さん(48)は解説した。「当社は海外進出を進め、グループ人員の半数以上が海外関係会社に所属します。世界人口の2割以上を占めるイスラム教徒に配慮するのは当然です」
「そんなに多いの」。驚いた明日香は野村総合研究所に急いだ。専門家の上級研究員、小池純司さん(36)が明かした。「世界のイスラム教徒は16億人以上といわれ、6割が東南アジアや南アジアに住んでいます。日本企業は海外でもイスラム市場の開拓にやっと着手したところです」
イオンは13年1月、マレーシアにプライベートブランド(PB)商品の開発会社を設立。現地の機関からハラル認証を受けた商品を、14年にオープンするインドネシアの1号店でも販売する予定だ。
キユーピーは10年以降、マレーシアで地元のハラル認証を受けたマヨネーズなどを製造する。13年春からはイスラム教の偶像崇拝禁止に配慮、シンボルマークから天使を連想させる羽を除き始めた。
イスラム教は金融取引で利息の受け渡しを認めていない。そこで銀行は、たとえば消費者が自動車を購入するため融資を求める際には、この人に代わってクルマを買い、銀行の利益を上乗せした代金を何回かに分けて消費者に返済してもらうような手法をとる。こうしたイスラム金融の外貨建て融資を、みずほ銀行はマレーシア現法を通じ14年3月までに開始する。
三菱UFJリサーチ&コンサルティングは海外に進出する日本企業を後押し。コンサルタントの森下翠恵さんによると、東南アジアを目指す企業は5年ほど前まで、裕福な華人系をターゲットにしていたが、3年くらい前から所得を増やしたイスラム教徒などの中間層を狙い始めた。森下さんは「昨年から食品だけでなく、医薬品や化粧品のメーカーからもハラル認証取得に関する問い合わせが目立ってきました」と証言する。
明日香はうなずいた。「イスラム教は遠い宗教だと思っていたけれど、日本企業が市場獲得で競い始め、わたしたちの仕事や日常生活とも関係が深まりつつあるのね」
明日香は秋田県大館市のベンチャー企業、フィールドイノベーションが開いた会見に参加した。農業生産法人と共同で地元産のコメにハラル認証を受け、14年産から東南アジアなどに本格輸出する方針だ。代表取締役の佐藤仰喜さん(29)が指摘した。「TPP対応でコメを輸出するにはハラル認証が必要でした」
水田の近くに養豚場がないことなどを証明するもので、認証があれば消費者が安心して購入できる。
「TPP対応って?」。戸惑う明日香に貿易ルールに詳しい亜細亜大学教授の石川幸一さん(64)が助け舟を出した。「TPPとは日本や米国のほか、シンガポール、マレーシアなど東南アジア諸国も加わる『環太平洋経済連携協定』という自由貿易協定(FTA)のことです」。仮に域内各国でコメの貿易障壁が相互に低くなれば、おいしい日本産の輸出に商機がある。
並行してマレーシア、インドネシア、インドといったイスラム教徒が多い国や日本、中国などが加わる東アジア地域包括的経済連携(RCEP=アールセップ)というFTAの15年妥結に向け交渉が進んでいる。石川さんは「将来はTPPとRCEPを包括するようなアジア太平洋全域に広がるFTAを作る構想もあり、特別な対応が必要なイスラム市場の早期開拓は理にかなっています」と指摘した。
事務所で明日香が説明すると所長が提案した。「事務所に礼拝室を作って東南アジアの依頼人を獲得しよう」。明日香が応じた。「所長の部屋を明け渡してくださいね」
(編集委員 加賀谷和樹)
[日経プラスワン2013年10月19日付]