/

ヘミングウェイの妻 ポーラ・マクレイン著

妻の視点で語るパリでの日々

原題は『パリの妻』。生涯4人の妻をもった作家ヘミングウェイと、最初の妻ハドリーのパリでの日々を、ヘミングウェイ『移動祝祭日』に依りつつ、妻の視点で語り直した、(呉越同舟風で奇妙な用語だが)ノンフィクション小説である。

第1次世界大戦従軍から帰国後、傷が癒えない21歳のヘミングウェイはシカゴでハドリーと出会う。傷と言っても何より痛手だったのは精神的な傷で、もっぱらそれは、イタリアで入院中に恋に落ちた看護師アグネスとの破局によりもたらされた。その顛末(てんまつ)を手短に知るには、掌編「ごく短い物語」にあたるのがよい。

煎じつめれば、若きヘミングウェイは7歳年長のアグネスに翻弄されたのである。結果、本書でも見え隠れしているが、〈マッチョ〉ヘミングウェイをして、この頃はたいそう弱虫で、その揺らぎが彼を、当時の浮ついた女性たち(フラッパー)とは一線を画す8歳年長のハドリーへと向かわせたのは想像に難くない。

さて、2人は結婚後パリに移り住むが、夫には定職はなく、借りたアパートは、手を洗う洗面器は各階共同で、トイレは蹲踞(そんきょ)式で「いつも耐え難い悪臭を放っていた」(2人の生活の実態については高見浩訳『移動祝祭日』訳者解説を参照)。

しかしそれも、ハドリーにとってささいな苦痛にすぎなかった。夫が自らの慰めのために自分をめとったのは明らかだった。安普請のアパートで、マイペースで出歩く夫の背にうなだれることもしばしばだった。長男が誕生するが、やがて夫は2番目の妻となるポーリーンにいれこむ。

ヘミングウェイ作品には「パパのコード」とも呼ばれる特有の男性目線がある。本書では女性目線からそのコードが、あなたはどれだけものを見ていなかったことか、と暗に言わんばかりに解体される。そのうえで、結末には『移動祝祭日』にはない後日譚(たん)(史)が挿(はさ)まれる。感傷に走るきらいはあるが、そこには、彼を最も愛したのはわたしに他ならないという自負に満ちた老女・ハドリーがいる。ベテラン翻訳家の瑞々(みずみず)しい訳業がその姿をいっそう引き立てている。

(盛岡大学教授 風丸良彦)

[日本経済新聞朝刊2013年9月15日付]

ヘミングウェイの妻

著者:ポーラ・マクレイン
出版:新潮社
価格:2,520円(税込み)

すべての記事が読み放題
有料会員が初回1カ月無料

セレクション

トレンドウオッチ

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

新着

注目

ビジネス

ライフスタイル

フォローする
有料会員の方のみご利用になれます。気になる連載・コラム・キーワードをフォローすると、「Myニュース」でまとめよみができます。
新規会員登録ログイン
記事を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン
Think! の投稿を読む
記事と併せて、エキスパート(専門家)のひとこと解説や分析を読むことができます。会員の方のみご利用になれます。
新規会員登録 (無料)ログイン
図表を保存する
有料会員の方のみご利用になれます。保存した図表はスマホやタブレットでもご覧いただけます。
新規会員登録ログイン