ルールに従う ジョセフ・ヒース著
「道徳」からみる人間の社会行動
「蟻(あり)のコロニーについては解明が進んでいるのに、人間社会がどのように機能しているかについては、良く分かっていない」。著者のヒースは40代半ばの気鋭の哲学者で、本書は「ルール遵守(じゅんしゅ)」という人間の社会行動に焦点をあて、この問いに答えようとする。「道徳」という哲学の古典的なテーマを、経済学、ゲーム理論、心理学、進化生物学など、最先端の研究成果を踏まえながら論じるアプローチは新鮮である。各分野の学説に対する批判と問題提起を通じて、幅広い読者を惹(ひ)きつける内容となっている。また、最先端の議論にもカントやヴィトゲンシュタインをはじめとする哲学・思想史のエッセンスが見事に噛(か)み合って、まるで彼らが現代に蘇(よみがえ)って目の前で論戦をしているような臨場感がある。

ヒースによると、20世紀の社会科学とくに経済学は、期待効用理論の台頭によって、人間の道徳的側面が行動に与える役割を軽視してきた。しかし、実は道徳性こそが人間の合理性の根本を支えているのであり、かつ道徳の源泉は多くの哲学者が言うような形而上学的なものではない。「ルールに従う」という道徳的規範は、言語と同様に人間の「規範同調性」に支えられ、長い時間をかけて蓄積されてきた文化的人工物である。
これらの考察は、人間行動とくにそのミクロ的側面の解明に新たな枠組みを提供する。タイトルに「社会科学の規範理論序説」という副題がついたゆえんである。同時に、本書は人間社会のより大きな側面、すなわちテロや戦争など国際問題を考える上でも、大きな示唆に富んでいる。道徳的規範は文化依存的である故に、強い内集団バイアスを持つが、異なった集団間においても、人間はインタラクションを通じて規範のシステムを変容させることができるからである。
忙しい社会人の読者にとって、哲学書特有の言い回しと専門用語は決してフレンドリーではないが、訳者による分かりやすい解説がこれを補ってくれるだろう。中身は我々の身近な問題意識に直結しており、読み進むに従って手ごたえが増してくる一冊である。
(経済評論家 小関広洋)
[日本経済新聞朝刊2013年7月7日付]
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