疑問ぬぐえぬ道徳の教科化
安倍晋三首相の肝煎りで発足した教育再生実行会議が、いじめ問題について提言をまとめた。新たな法律の制定や、学校・家庭・地域が一丸となった「責任のある体制」づくりなどを求めている。
疑問をぬぐえないのは、道徳教育の「教科」化だ。第1次安倍内閣の教育再生会議も打ち出した提言だが、国が子どもの心の内面に踏み込むことに異論が出て実現は見送られた。それがいじめ対策の一環として再浮上したわけだ。
学校での道徳教育は国語や算数などの教科とは別の位置づけで展開されてきた。成績をつけず、検定教科書も使わない。そのかわり「道徳の時間」だけでなく学校教育全体のなかで公徳心をはぐくむのが道徳教育にはふさわしい、というのが基本的な考え方である。
こうしたかたちで定着している道徳教育を、いま、あえて教科化する意味はあるのか。
提言は、現行のままでは学校や教員によって充実度に差があると指摘したうえで、「新たな枠組みによって教科化し、人間の強さ・弱さを見つめながら、理性によって自らをコントロールし、より良く生きるための基盤となる力を育てる」べきだと述べている。
よくわからない説明である。かつて果たせなかった教科化を、こんどこそ実現させたいという思いが先走っていないだろうか。
下村博文文部科学相は「成績評価にはなじまない」としながら「国として、どこでも使える教材をつくる」とも述べている。全国統一の教材で授業を行い、それに基づいた尺度で規範意識を測る。そんな展開が予想される。
これでは道徳教育は窮屈な型にはまり、かえって矮小(わいしょう)化する。人間の心のひだに触れる道徳というものを上から押しつけたとしても、本当の効果は得られないだろう。教科化は弊害のほうが大きいのではないか。
この問題は文科省での検討を経て、中央教育審議会でさらに議論を進めることになっている。よくよく慎重な取り扱いが必要だ。