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談志が死んだ 立川談四楼著

師匠の「老い」を見詰める弟子

私自身の経験から自信をもって言うが、芸能する人の多くは実に面倒くさい。自意識が途方もなく肥え太っているから。もっともそうでなくては芸をなりわいにすることなどできないが、それが芸の起爆剤になることもあれば、手枷(かせ)足枷になることもある。厄介なのは、自分の描く自分と他人に見られる自分との間に塞ぎきれない隙間が生じる場合であって、時には「老い」がその隙間を乱暴にこじ開けることもある。マクラで「老いるってことにどう向き合ったらいいのかわかんないんだろうね、俺は」という言葉を聴いたのは、談志のどの高座だったか。

(新潮社・1500円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

帯には「虚実皮膜の間に描き尽す長篇(へん)小説」と銘打ってあるが、人物や会社やお店はすべて実名。どこからどこまでがフィクションなのか判じがたい。談志の逆鱗(げきりん)に触れたという弟弟子の著書をめぐっての会話、「ホントのことばっかりじゃ面白くも何ともありませんから」「本ではいるはずの人がいなかったり、いないはずの人がいるという」の要領で、恐らくは尾ひれ背びれの先っぽにちょっとした演出が施してある程度のことだろうが、まあそんな詮索に大した意味はない。三島由紀夫割腹の時、参院選の時、落語協会脱退の時、痩せ細った晩年、死去の直後。談志の周りにはこんなような景色があり、こんなようなことを思う著者が立っていたのだ、と思えばそれでいい。著者にまで累が及んだ先の逆鱗を「オレが間違ってた。忘れろ」「そういうことだ、水に流せ」で収める談志の「老い」を、著者は自分の感情の渦と並べてじっと見詰める。師匠と弟子。一人のアカの他人をこれだけ見詰め続けるのは恋人同士でも難しい。

死者は生者の声によってしか語られない。しかし葬式や法事で思わぬ悲喜劇が演じられるように、死者は生者を狼狽(ろうばい)させ、普段は周到に隠された生者の姿をさらけ出す。だからこそ生者が死者を語ることには意味がある。本屋に行くと「談志本」の数の多さに驚く。つまりは談志があまたの声で語られるべき稀有(けう)な人だということだが、その内にも本書の声はとりわけ深く響いている。息子が父を語る時のようなほろ苦さがいい。

(京都造形芸術大学准教授 矢内賢二)

[日本経済新聞朝刊2013年2月3日付]

談志が死んだ

著者:立川 談四楼.
出版:新潮社
価格:1,575円(税込み)

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