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沈黙のひと 小池真理子著

残された言葉からにじむ愛憎

《自分の父親に真剣なまなざしを向け、見つめ、その人生を自分なりに解釈しようとし始めた時、すでにその人は、車椅子の中でうつむき、沈黙していたのだった》と描写されるこの父親は、パーキンソン病を患い、手足の自由を失い、意思の疎通がほとんどできなくなっていたのである。認知症になっていたわけではないので、その身体の内側では様々な思いがかけ巡っていた。しかし外に出せない。そのもどかしい状態が、「沈黙」という言葉に象徴され、痛切に描かれる。

(文芸春秋・1700円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

主人公の衿子は、幼いときに両親が離婚したため、父親とはずっと離れて暮らしてきた。自宅での生活が無理になって施設に預けられた老父を頻繁に見舞うことになった時、衿子は五十歳を超えていた。優秀な編集者としての、多忙で自立した生活につきつけられる、親の老いと死の現実。自分とは関係ないものとして生きてきたはずの父親の「沈黙」に、衿子の心が激しく揺さぶられる様子に共感しつつ、時間が過ぎていくことの残酷さと豊かさを同時に味わった。

プーシュキンを隠し持ちたる

学徒兵を見逃せし中尉の瞳を

忘れず

戦場という非常の場で、「プーシュキン」を媒介として視線だけでお互いの心を察知しあった一瞬を詠んだ一首。作中の父が詠み、新聞歌壇に掲載されたとされる短歌である。新聞に採用される投稿歌としてなんてリアルなのだろうと感心しながら読んだのだが、あとがきによると作者の父親が残した短歌だという。実作を引用して編まれた本書は、フィクションではあるが、作者とその家族の実人生が色濃く反映されていることは間違いない。短歌や手紙や日記は、死者の魂をこの世に生き生きと呼び戻す。一人の主観で書かれたものが生者の心を揺らし、響かせる。時には衝撃的に。

二人の妻、愛人、歌友、腹違いの娘たち。一人の男を巡る愛憎が、男が残した言葉、男へ向けられた言葉から滲(にじ)み、さらに新たな感情を生む。死によってすべてが終わるわけではないのだ。故人の残響と共にあるこの世で、小説の時間が後を引く。

(歌人 東直子)

[日本経済新聞朝刊2013年1月13日付]

沈黙のひと

著者:小池 真理子.
出版:文藝春秋
価格:1,785円(税込み)

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