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一四一七年、その一冊がすべてを変えた スティーヴン・グリーンブラット著

古代ローマの叙事詩発見の物語

「本には本の運命がある。その運命を決めるのは読者の心である」と喝破したのは、古代ローマの文人マウリスであった。この時代の本は、『グーテンベルク聖書』(1455年頃)が出版されるまで、すべて筆写された「写本」であった。だが、由緒ある修道院の図書館に収蔵されている古代写本の多くが何世紀ものあいだ誰の目にも留まらず、塵芥(じんかい)のごとく放置されていたのだった。

(河野純治訳、柏書房・2200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

本書は、15世紀初頭、ルネサンス黎明(れいめい)期のイタリアで、ポッジョ・ブラッチョリーニという名の熱烈な人文主義者がヨーロッパ各地の修道院の図書館が秘匿する古代ギリシア・ローマの写本を見つけ出し、それを正確に筆写する「ブックハンター」の物語である。

実は、ポッジョはこの仕事をする前に、ローマの教皇庁で教皇秘書まで上りつめていた。当時、教会の大分裂のために教皇が3人も乱立し、ヴァチカン自体も陰謀、殺害、淫乱、強欲、脅迫、異端狩りと火刑など、まさに偽善の巣窟であった。彼が仕えていた教皇ヨハネス23世は、宗教的な使命感などは微塵(みじん)も持ち合わせていない「陰謀の達人」だったが、70件もの罪容疑で退位させられ縲絏(るいせつ)の辱しめを受けていた。当然、彼も解雇されるが、再就職せずに、読書と筆写の技能を駆使して、失われた古代文書の発掘に情熱を燃やす。

ポッジョは幾多の困難を克服し、1417年1月、ついに、古代ローマの詩人ルクレティウスの哲学叙事詩『物の本質について』(紀元前50年頃)を発見する。実に千数百年ぶりの邂逅(かいこう)であった。ギリシアの哲学者エピクロスの思想を伝播(でんぱ)するために書かれたこの長篇(へん)詩集は、まず「神の摂理の否定と死後の世界の否定」を明示する人間讃歌(さんか)を謳(うた)いあげている。この無神論を基盤とする思想がルネサンス運動の先鋒(せんぽう)に立ったのみならず、やがて異端として痛罵されることになる原子論や地動説を先取りし、さらに20世紀のダーウィンやアインシュタインなどにも影響を与えたという。

本書の醍醐味は、なんといっても、ヴァチカンの狡猾(こうかつ)な内部抗争にまみれる人間模様である。

(法政大学教授 川成洋)

[日本経済新聞朝刊2013年1月6日付]

一四一七年、その一冊がすべてを変えた

著者:スティーヴン グリーンブラット.
出版:柏書房
価格:2,310円(税込み)

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