冷血(上・下) 高村薫著
「通俗」を介して探る生の刻印
最初、高村薫が帰って来たと思った。東京郊外で発生した医師一家殺人事件を犯人と被害者の視点から描く第一章「事件」、警察の捜査活動を通して犯人逮捕へと至る第二章「警察」がミステリー的で昂奮(こうふん)させるからである。

しかも主人公は『照柿』『マークスの山』『レディ・ジョーカー』の刑事合田雄一郎。ここ十数年、『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳(ひ)く馬』では純文学路線だったので久々にミステリーに回帰したとばかり思ったのだが、それは違っていた。第三章「個々の生、または死」に入り、執拗に重ねられる内的独白、頻繁にかわされる書簡、それによってなされる禅問答風の対話など『晴子情歌』『太陽を曳く馬』を思わせるからだ。
タイトルからもわかるようにトルーマン・カポーティの『冷血』に挑戦していて、ドキュメントスタイルで迫る。実際、供述書や録音記録などを次々に引用しながら推理をめぐらす。ただカポーティが被害者や加害者の家族の肖像に迫ったのに対して、高村はひたすら犯人二人の内面に肉薄しようとする。動機なき冷血な殺人に駆り立てたものは何かを追及するのだ。
高村薫が『晴子情歌』を書いたのは、同時代を事件を通して描く形に限界を感じたからである。人物たちの外側にある事件ではなく、人物たちの精神と肉体のなかに刻み込まれた何ものかに目を向けるようになった。それは政治小説的な『新リア王』、宗教小説的な『太陽を曳く馬』でもそうだった。事件を柱にした現実社会の透視図という構図のエンターテインメントではなく、個人と社会がきりむすぶ時代の刻印を精神と肉体の中から掴(つか)み取るという純文学的手法なのである。
本書もまたそれを踏襲しているけれど、近年の三部作と異なるのは、映画『パリ、テキサス』『トーク・トゥ・ハー』、パチスロ『獣王』など実に多くの通俗的な事物を介して不確かな生の刻印を探ろうとしている点だろう。犯人たちは驚くほど饒舌(じょうぜつ)に細部を語り、それによって人間観察が深まり、人間存在の根源がすこしずつ見えてくる。高村薫にしか書けない内面探索の文学である。
(文芸評論家 池上冬樹)
[日本経済新聞朝刊2013年1月6日付]
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