ヴァーチャル・ウィンドウ アン・フリードバーグ著
世界認識への影響あぶり出す
本書は窓(ウィンドウ)に焦点を当て、コンピューター時代における、「見る」の未来を哲学する。

著者が扱うのは、窓そのものばかりではない。窓と比喩的に呼ばれうるものすべて、絵画、映画、テレビ、コンピューター画面などである。本書は、15世紀ルネサンスの画法「遠近法」にはじまり、とりわけマイクロソフト社の「ウィンドウズ」を筆頭に、今日の各種デジタル・スクリーンに至るまで、窓の一族を取りあげている。
しかし単に、窓の一族という視覚装置の技術史を書こうというのではない。映画のスクリーンやテレビ画面と向きあってきた、人間の世界認識のありようを、あぶり出そうというのである。
そもそも窓とは、「世界」から、その一部分である「風景」を切りとる「フレーム」であり、切りとった風景を映しだす「画面」である。切りとるとは、「画面外」を排除することだ。つまり窓とは、ひとつの編集作業であり、物語装置に他ならない。そして大抵の場合、ひとは画面上で見たものによって、世界を知った気になる。それが、単にひとつの物語であるにもかかわらず。
かくも、人間の世界認識に大きな影響をあたえてきた窓。その窓が、コンピューター時代に岐路に立っている。マイクロソフト社「ウィンドウズ」という名称が複数なのは、示唆に富む。
かつて映画鑑賞者は、スクリーンの前に座り、一本の映画を観(み)た。別の作品を見たいときには、時間あるいは空間を移動しなくてはならなかった。古い画面が提示してきた「遠近法」は、「単一性」と「連続性」でできていたのだ。
他方、コンピューターのそれは、「まったく新しい視覚システム」なのだ。コンピューター画面というフレームの中では、複数の窓(ウィンドウズ)、つまりさまざまなアプリや画像が、「同時に存在可能」だ。しかも、個々の間には、「体系的な空間的関係」はない。だから、クリックひとつで自在にアクセスできる。新しい画面は、「複数性」と「同時性」でできているのだ。
このように、窓から見える風景の存在論は激変した。それがもたらすのは、「快楽」なのか「危険」なのか。著者の論考は一読に値する。
(早稲田大学教授 原克)
[日本経済新聞朝刊2012年8月26日付]