ドナウ ある川の伝記 クラウディオ・マグリス著 沿岸の地域をめぐる深い思索

2012/7/17付
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南ドイツの「黒い森」から東方の黒海まで、ヨーロッパ中部を横切って、悠揚迫らぬ様(さま)で流れるドナウ川。その川をテーマにした名著が登場した。

(池内紀訳、NTT出版・3800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

(池内紀訳、NTT出版・3800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

ドナウ川の源流から河口まで、沿岸地域と都市をめぐりながら、そこにどんな特異な空間が作られたのか、いかなる歴史の刻印が押されているのかを深く思索している。そのため景観や建物を活写し、ゆかりの諸民族、文学者や思想家、王族や政治家、職人や農民、あるいは著者の友人・親戚らを登場させ、ときに映画や音楽や食べ物や古本屋にまでも話題を広げている。とりとめのない評言と感想のパッチワークのようでありながら、百数十編にもおよぶ短章で描かれる図柄は、すべてどこかで繋(つな)がっているように思われる。それらを繋いでいるのは、「ドナウはオーストリアの川であって、歴史不信こそまさにオーストリア的である。矛盾を解決するにあたり、弁証法にはよらず、いわば死がより接近してくる未来に歴史をあずけて、そのなかで克服して無化しようとする」「オーストリアとは、しばしば、わが家のように感じるところのことだ。ヨーゼフ・ロートが愛したとおり、親しみと疎遠さが独特の調和をもつところ」というような文章が象徴する、中欧(ミッテルオイローパ)の精神だろう。

何の前置きも解説も註釈(ちゅうしゃく)もなしに、夥(おびただ)しい人名、地名、書名が持ち出され、論評される。不親切な本だ。だがたとえ内容を十分理解できるだけの該博な知識がなくとも、この不思議な構成をもつ書物の流れに身を任せて読み進めば、東方と西方の間にあって、しばしば苦難の歴史を歩んだ中欧の悲哀と執心が、次第に身に沁(し)みてくるはずである。

かつてヴァッハウ渓谷をメルク修道院まで、遊覧船で溯(さかのぼ)ったことがある。ドナウ川両岸の丘上に点綴(てんてつ)する古城や修道院に歓声を上げたことを覚えているが、本書を読んでいたら、まったく別のドナウの魅力を発見できたのにと、ちょっと悔しい。

ドナウ地方はこれまで日本人にはほとんど馴染(なじ)みがなかっただけに、その過去と、未来の可能性を伝える本書は貴重である。

(東京大学教授 池上俊一)

[日本経済新聞朝刊2012年7月15日付]

ドナウ ある川の伝記

著者:クラウディオ・マグリス.
出版:エヌティティ出版
価格:3,990円(税込み)

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