2019年1月23日(水)

紙の月 角田光代著 日常生活を捉え直す濃密な描写

2012/5/7付
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女性二人の人生を交錯させた直木賞受賞作『対岸の彼女』(2004年)の2年後から、角田光代の物語世界は一段と深化していく。悪意と憎悪をテーマにした短篇(たんぺん)集『おやすみ、こわい夢を見ないように』から、犯罪を積極的に扱うようになったのである。

たとえば幼児誘拐をテーマにした『八日目の蝉』、実在の事件をモチーフにした『三面記事小説』、お受験殺人をめぐる『森に眠る魚』など、謎解きに中心がおかれる国産ミステリーではなく、謎含みの人生の深層をさぐりあてる海外ミステリーの手法を使ってスリリングに物語を運び、結末も余韻を残して深い。『森に眠る魚』がそうだが、現実と非現実の間で精神の闇を抉(えぐ)るあたりは純文学作家ならではの鋭さをもつ。

本書も公金横領の逃亡犯を主人公にしているが、展開は独特だ。

わかば銀行の元契約社員梅澤梨花(41歳)は1億円を横領してタイに逃亡してきた。宿を転々としながら、横領に至るまでの日々を回想する。

一方日本では、梨花の高校時代の同級生、料理教室で一緒だった女性編集者、元恋人などが梨花との関係を思い出し、日々の生活の空しさに気づく。

群像小説風の味わいをもつ逃亡譚(たん)かと思わせておきながら、作者はひたすら梨花の過去を追う。夫婦生活における小さな違和感、その一つ一つを具体的な挿話の積み重ねで描いていく。プレゼントや外食で感じた些細(ささい)なずれ、そのずれの小さな波が次第に不穏な雰囲気を作り、やがて大きなうねりとなって人物たちを飲み込む。日々の生活がいかに危うく、人を変えて犯罪に走らせるものであるかを、梨花と、日々の不安と不快のなかで生きている同級生たちを対比しながら描ききっている。

ここでも、角田光代の喚起力にとむ濃密な描写が圧倒的だ。たんたんとした記述なのに読者は息をつめて読み、狂おしいまでの焦燥感のただなかへと入り込む。罪をおかさないで生きていることが、あたかも僥倖(ぎょうこう)であるかのように思えてしまうほど、読者に日々の生活を振り返らせる。日常生活を静かな地雷原として捉え直した、角田光代の新たな秀作である。

(文芸評論家 池上冬樹)

[日本経済新聞朝刊2012年5月6日付]

紙の月

著者:角田 光代.
出版:角川春樹事務所
価格:1,575円(税込み)

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