生き甲斐の社会史 キース・トマス著 響き合う英国近代の無数の声

2012/5/2付
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誰が翻訳したかでその本を読もうという気持ちも左右される。村上博基か小笠原豊樹が訳したものであれば、それがなんであれ読みたいと思う。この本もそうである。著者のキース・トマスという学者については多くの読者は知るよしもない。しかしイギリス社会史研究の泰斗川北稔が訳したものであれば、それがイギリス社会史の理解にとって大事なものであることはすぐに知れる。

(川北稔訳、昭和堂・4000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

(川北稔訳、昭和堂・4000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

そういうと学術書の難読を予想されると困る。そもそも川北のイギリス社会史は、イギリス庶民の生活史や都市の日常についてのものであるから、それはきわめて具体的な日常の歴史なのだ。この本のなかでも、著者は、イギリス近代の人間が、なにを人生の充実と考えたのかを、軍人、労働者、哲学者、貴族、政治家、詩人という社会の複雑な異相のうちに入り込んで、具体的に書いている。いや書いているというのは正確ではない。この本は膨大な引用の織物である。ホッブズやロック、ヒュームといった哲学者と執事や職人、商人の言葉がなんらの差異もなく並列され引用される。

なにをもって人生の充実としたのか。次々と引用される言葉を読んでいくうちに読者は、イギリス近代の無数の声が響き合うロンドンの街路を歩く感覚に襲われる。武勲が生き甲斐(がい)であるのか。労働が生き甲斐であるのか。働くことが生活の充実とつながるのにも歴史が必要であった。働くことを不名誉と考える時代もあった。キリスト教は現世ではなく来世の神のもとでの名声が人生の目的であると考えた。しかし、著者は本の最後で、ドライデンの言葉を引用しながら、イギリス人が人生はこの世の生活そのものとして大事であると気がついたと書いている。それは日常の仕事、財産、友情、家族への愛といった脈動する生活と生命への肯定である。その生き生きとした日常への肯定と愛とも言うべき感情のうちで、著者は、膨大な資料と文献のうちからこの引用の織物を作り上げた。訳者川北稔の思いもそこにある。

(明治大学教授 土屋恵一郎)

[日本経済新聞朝刊2012年4月29日付]

生き甲斐の社会史―近世イギリス人の心性

著者:キース トマス.
出版:昭和堂
価格:4,200円(税込み)

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